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2009.12.05 先生の子育て
先生の子育て



 なんでそんなところをひとりで歩いていたのかわからない。一年生の教室から離れた宿直室がある廊下にひとはだれもいなくて静かだった。
 そこが宿直室であると知ったのは高学年、多分、四五年生になってからだが思わず覗き見するようなことになったのは、戸が開いて宿直室の入口が明るかったからだ。部屋の窓の白い光が戸口にとどいていたのであったかもしれない。
 その窓の下にうずくまるようにして担任の先生が、赤ちゃんにおっぱいを与えていた。膝をついた中腰な姿勢のままの先生がこちらを見て、眼が合った。赤ちゃんは上を向いて、先生の胸に顔でぶら下がるようにしておっぱいを吸っていた。
 ほんの少し前には教室にいた先生が、短い休み時間にこんなところで赤ちゃんにおっぱいを飲ませていることがわかってびっくりしたけれど、先生が教室にいるあいだ赤ちゃんがあのうす暗い部屋にひとり寝かされていた、あの頃はそんなことも当たり前だったのだろうかと考えたのは大人になってからであったと思う。
 お年寄りにインタビューして先人の体験を貴重な財産として後世に残す「記憶の銀行」(2009年10月30日付「朝日新聞」)がイタリアに始まって世界に広がりつつあるという。それは子育てさえ国が後押ししてくれる時代に、若いひとたちが自らの目標を見つけられなくて戸惑っている姿とみることもできるけれど、そのまじめさはたたえられていい。
 ぼくの場合というべきか、ぼくらの時代というべきか、何もない殺風景な部屋で戸を閉める寸時も惜しむように赤ちゃんにおっぱいを与えていた担任の先生の姿が宝物であったかもしれない。
 そのことを今日までだれにも話さなかったのではなくて、話せなかった、自分がこうしておとなになりましたと伝えることは難しい。ぼくが小学校に入学した年だから、昭和23年のことだった。
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北見のまちづくり その3



 友人、知人宛に「呼びかけ」をして、さて、「発起人会」当日、賛同して何人集まって下さるかはわかりませんが、ひとまず「日時」と「場所」を決めて参加をお願いしました。
 途中、何人かのひとと話す機会を得ましたが、こういう活動がとても大切なことになるという声の一方で、いろいろな考え方があり「どこ」に「なに」を目指して活動するかは難しいと二の足を踏むひともいてそれも当然と思えるのでした。
 しかしやってみなければわからないと盲蛇に怖じずでまずは一歩を踏み出してみるしかありません。




                               2009年11月18日                                                                                                                                         
各 位



      北見日赤病院の明日を考え、支援する会(仮称)



 下記の日程で準備のための「発起人会」を開きたいと思います。是非、発起人のメンバーとして御協力いただけますよう、ここに御案内申し上げます。

                   記

     【日時】  2009年11月27日(金) 午後6時30分
     【場所】  北見市民会館2号館
     【会費】  200円(会場費として)



 小さな手術といっても麻酔が切れて意識がもどっているのに、身動きがとれなくてつらい時間が続きます。
 つらさに抗している眼をとじてひたすら思いめぐらし気をまぎらせているしかなくて、その耳もとに「タニカワさーん、大丈夫ですかぁ・・・・・」「何かつらいことありませんかぁ・・・・・」「何かあったらすぐ教えてくださいねぇ・・・・・」と看護師さんが何度も声をかけて下さって朝を迎えたとき、自分の体がどこかに消えてしまったように軽くなって、気分が晴れやかなのに気がつきました。
 そのときぼくは病院が学校にとてもよく似ていて、看護師さんが教師のようでもあるのだと気がつきました。そんな「ひと晩」が何ヵ月、何年と続くかもしれない、身を預けることになるかもしれない病院、そこに「大丈夫ですか!?」と声をかけて下さる看護師さんがおられなかったら、ぼくらはつらい夜と昼とをどうやり過ごせばいいのだろうかと考えたわけです。
 いろいろな考え、意見はあるでしょうが何より、高齢者や幼児、女性など身近に頼れる医療施設を必要とする人たちの声を背に受けて活動できるような会をつくりたいと考えています。
 そのための「発起人会」、高齢者や女性だけでなく、幼児の父親であるような若い人の参加もいただければ大きな励みになります。
 御協力を重ねてお願い申し上げます。

                                    谷川 勝男

北見のまちづくり その2



 鳩山政権のもと「無駄」をなくすための国の予算を見直す作業がすすめられています。画期的なことと思いますが北見日赤病院の問題もそのことに関連していて、「新病院」の建設は平成24年には着工しなければならないといいます。
 新病院の計画、設計に2年、建設に2年を要するというのですから「どこ」に、「どんな」病院をつくるかは緊急の課題ということになります。

 先頃、日赤病院側から現市庁舎敷地を建設用地としたい旨が明らかにされていますが、それでは市庁舎をどこにつくるのかまだ何も決まっていません。
 日赤病院を日赤看護大周辺にどの声も一部にあるようですが、病院の総体的利便性や高齢者の足の確保などを考えるとき現在地及び市庁舎敷地にまたがる場所こそが最適であるようにも思われます。
 福祉がいわれ、高齢化社会が続くことを考えれば病院が「特別」な場所、「一時」の必要と考えるだけでは足りなくて、病院が市民の生活空間の一部であり、家庭の延長としての病院が「そこ」にあるというのが理想的であるかもしれません。

 北見日赤病院を北見の「まちづくり」として考える、市の中央に新病院がつくられて、そこを中心に人が集う、というくらいに発想の転換があってもいいのではないかとも考えるわけです。
 そんなあれこれを話題にしながら、ささやかな活動が始められればと思いました。
北見のまちづくり



 こんな会があってささやかな活動ができたらいいのにと思いました。



    各位

         北見日赤病院の明日を考え、支援する会(仮称)



 日ハムが巨人と闘っているときに、小さな手術をして日赤病院に入院していました。担当の看護師さんたちの至れり尽くせりのお世話をいただきながら、思いめぐらしていたのが標記のようなことです。

 病院のことだから健康な人、若い人に関心をもっていただくのに多少の無理があるかも知れません。しかし北見日赤病院の新病院建設、その前提としての内科復活は北見の街づくり、私たちの未来にとっての最重要課題と思います。健康で若い人たちにとってこそ重要なというべきであるかも知れません。
 北見日赤病院は市民だけではなくてオホーツク全域、ひいては道東の中核医療施設としての役割も担ってもらわなければ「もったいない」病院なのだと考えます。

 そんなにも大切な北見日赤病院に私たちは何を記し、どんな応援ができるのか。日ハムの巨人戦を観ながら、北見日赤病院と市民とが、日ハムとその応援団のようであったらいいのにとも思いました。
 ドクターや看護師、事務方のお仕事を私たちが応援し、私たちの安全・安心を病院に預かっていただく。それが当たり前に自然伝統的なことになり、精神の体力を培うことができれば、病んでやがて死を迎えることは怖くはない。そうではないでしょうか。

 あの街のあの病院なら仕事がしてみたいと医療最前線で仕事をなさる若いドクターに思ってもらえるような病院づくり――
 24時間体制で仕事をなさる看護師さんの誇り、励みであるような病院づくり――
 そして私たち「患者」が安心して身を預けることのできる病院づくり――

 そのための意見、疑問、要望を出し合って、やがてはドクターや看護師の方々とも膝をまじえて語れるような会があればいいなと思うのですがいかがでしょうか。
 賛同いただけましたら隣りの方に声をかけていただく、そのための時間を今少し、そして、そう遠くない日に旗揚することができればと思うのですが――。


                       2009年11月9日  谷川 勝男

2009.11.05 母の流儀
母の流儀




 「君を採用するというのでもないんだ」
 というのはとても変な申されようではあったけれど、昭和四十年七月、教育委員会から呼び出しがあっていきなり通されたのが教育長室、開口一番、そのようにいわれて教員として正式に採用されたのです。
 それにしても変な話されようでどう言い直してみても、そのときの教育長のことば通りにはなりませんが、変といえば一教員の採用にいちいち教育長が対応するというのもないことだから、何から何まで通常とは違っていて、そんなことから察するに教育長なりのユーモアで、本来なら君のお母さんを採用したかったがそうもいかないから君に来てもらったという主旨ででもあったろうか、
「君のお母さんのような人は見たことがない、こんな人もいたんだと思ってね、ずいぶん驚かされたが、君はあのお母さんに育てられたんだねえ――」
 とひとり感心するようにうなずいてから、おもむろに、
 「○○中学校の英語教師が休職していたのだが、この一学期で辞めることになった。その後任として君に行ってもらう。免許は社会科だそうだが、まぁいいだろう、八月一日付けの採用だから夏休みに入る前に一度学校に顔を出しておきなさい」
 とそれだけ、採用に当たっての事務手続きまでをあっさり終らせてしまうやり方には一時の無駄をもつくらない手際よさであったのに、それから三時間です。教育長がそんなにひまな職務とも思えないのに、教員として採用したばかりの男を相手に教育について語り、教師について語り、親子について論じて三時間、その間教育長室のドアがノックされることは一度もなくて、帰りしな事務方の人たちが一斉に仕事の手を休めて見送ってくれた、その不思議なものでも見るような様子にぎょっとさせられて壁に眼をやったそのとき、ああ、教育長室に三時間もいたんだということに気がついて、今度は自分がびっくりしたことだからよく覚えているのです。

 テーマを与えられた講演でも三時間は長いし、どんなに気心が知れている相手でも三時間向き合っているのはやはり長すぎる、そんな時間をただ相づちを打ちたまに短い感想を意見らしくはさむだけの若い男相手に語り、語らせたものは何であったかと思いめぐらすとき、母だったのではないか、ぼくが相手なのではなくて背後の母が相手のつもりの語らいだったのではないかと受け止めれば少しは納得できることでした。
 ぼくは「60年安保」の年に高校を卒業して二年間、民間の会社で働きながら通信教育で一年分の単位を取り、上京するためのお金をたくわえ、上京した年にさらに一年分の単位を加えて三年に学部編入し、教員免許を取得して地元に戻ったのが昭和四十年三月のことです。北海道網走地区の教員採用試験にも受かってA登録されていたから、まさか不採用になると思っていなかったのに採用されなかった、それで母校の高校で時間講師のアルバイトをさせてもらっていました。
 そんな愚痴を多少は口にしたと思いますが、次年度には採用されるだろうとさほど心配もしていなかったのですが、Bで採用されているのにAの自分が不採用というのはやはり納得のいかないことでした。

 母が農良着をよそ行きに変えて、「ちょっと教育長に会って来る」と出かけたのは畑作の準備をしつつ田植えが始まる前にひと息つける五月のことであったと思います。
 母が細い眼に笑をふくませて動き出すのは十分に考え終って、たとえ見通しがつかなくてもやると決めたときなのですがしかし、当てもなく動くことはなくて、相手が理不尽な拒絶をするような場合でも根気よくこちらの正当性を主張して止まない、そのための材料はいつでも新聞から得ていたと思うのです。
 何かつてを頼りにというのではなくて、面識がなくても判断してもらえる相手として教育長の懐にとび込んで行く、そうするだけの根拠は新聞を通して学んでおくというのが母のやり方、流儀であったと思うのです。
 畑で作物が育つのを見ているのが一番いいと話し、それだけの人生ではあったけれど、教育長が三時間ぼくを相手にしてくれたのはそんな母の人生をいいものと認めてくれたからと受け止めれば、納得がいくというよりは嬉しさがこみあげてくるのです。
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