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 よろしくないけど、できちゃう子たち



 笑うわけにはいかないけれど、思わず、笑ってしまうしかないようなことをやらかしたい人について、学校側は、「特別に指導を要するとか、非行に困るということはない」(2009年4月9日号「週刊文春」)と言い、「髪を染めるようないわゆる不良ではなく、成績も中から上の『普通の生徒』だった」(2009年4月17日号「週刊ポスト」)と言う。

 80年代以降、いじめの加害者として登場してきた「いい親」の「いい子」たちと見ていいだろう。
 が、ここで標的にされたのは担任の女性教師、おなかに赤ちゃんがいた。

 おなじ教室で生活するクラスメイトは、11人について、こう話す。
 「不良じゃないけど、クラスの中では活発な、あんまりよろしくないグループ。一言で言えば『アウトキャラ』。ハジけています、みたいな。成績も悪くなく、かなりできちゃう子もいた」(前掲「文春」)。

 この語り手がまた「かなりできちゃう子」の一人であろうか、言葉づかいにもどこか品があって、いい人の様子をよくわからせてくれる。
 学校の説明がのっぺらぼうで、11人の言動はよからぬこととは思いつつ、担任の女性教師にくみしているでもなさそうな、学級の雰囲気までわからせてくれるのだから大したものだ。

 さらに、11人の「アウトキャラ」ぶりについて、別のクラスメイトはこう語る。
 「けっこう前から、『○○(A先生)うぜーし』と言っていた。やることはほとんどに文句をつける。注意されても『はぁ?』とか、『別に・・・』みたいな。それで注意されたこと自体にもムカついたり・・・・・」(前掲「文春」)。

 調子にのっているのはたしかだけれど、自分たちが、クラスメイトの反感を買っていないかどうか、教室の空気を読みながらやっている様子がわかる。
 一方の女性教師に、そんな学級の空気が読めて、その上で担任として必要な対応ができていたのかどうか、肝心なのはそのことだが、「けっこう前」からというのであるから、学級はすでに、担任の手を離れて、一人歩きをしていたようにも思われる。
 「先生を流産させる会」は、行き先を失った学級の「歯止め」として生まれたと考えることもできる。ブレーキをかけそこねた車が、「歯止め」としてのガードレールにぶつかって大事をまぬがれるというのはよくあることだ。

 ともあれ、そんな「アウトキャラ」どもに対するは「インキャラ」、いじめに当てはめれば、標的にされるのがオタク的で引きがちな「インキャラ」の子どもたち、「アウトキャラ」は加害者であるのが通例である。
 しかし、やがてのことに、学校時代におとなしくてまじめ、トラブルを引き起すこともないほどに目立たなかった「インキャラ」の代表ともいえるようなタイプの人間が、凶暴な「誰でもよかった殺人」の犯人として登場する。
 あのアキバ男がそうであったし、元厚生省幹部を次々襲ったあの男がそうであった。

 たまたまのことであるかもしれないが、週刊誌の取材を受けて登場する「かなりできちゃう子」であろう「コメンテーター」たちは、ワイドショーの出演者をはるかにしのいで、自分の見方、考え方というものを明確に打ちだして、学級の様子をわからせてくれる。
 
 担任がいて、学級はそうなった。
 という「事実」があるだけで、学級の「コメンテーター」たちが明らかにしているのも、そのことである。




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                              写真は、カラーコピー写真集「1年B組の友たち」
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                                しかし、孤立する友はいない。
                                教室が楽しければ、そうなる
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 教室の「人事」、席替え

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 黒板に番号をつけた「座席表」がつくられる。
 小道具は席替えのたびに使われる小箱が一つ、中に番号を書いた紙きれが折りたたまれて入っている。
 役員が座席表をつくって、その小箱を用意したら準備完了、席替えの「くじ引き」がはじまる。
 順に小箱から番号札を抜きとる。全員が引き終わったところで、番号を合わせて、黒板に、名前を書き入れていく。

 人事をつくして天命を待つというけれど、席替えも立派な一つの「人事」。
 手に持つ番号札を順に開きながら、役員の作業を見守る。夢と希望が交錯し、息苦しいほどの緊張感が教室のなかに満ちていく。四枚の写真は、そんな教室の様子である。

 席替えは前後左右の席に誰が座るかを決めること、一日の三分の一の時間を教室で過す子どもたちにとっては、最大最高の感心事、絶対「公平」を期すための方法は一つしかなくて「くじ引き」である。宝くじと同じ、どんな結果がでても恨みっこなしだ。

 担任にも言い分はあって、「あいつ」と「こいつ」の席は離したい、でなければうるささが倍増だものなと心中ひそかに思うけれど、それを言っちゃあおしまい、「くじ引き」の結果は尊重しなければならない。

 やがて机の移動がはじまって、落ち着いたところで、あらためてお互いに前後左右をながめ、あちらこちらを見渡す。
 その様子から誰が満足し、ガッカリしているのは誰かがわかる。
 「おい、またかよ。ズルしてねえか。なんでオマエたちがまた一緒なんだよ」とわざと言ってやると、「先生、あきらめてよ。皆見てんだからさ、ズルできるわけないじゃん、なあ」と得意そうにするワルたちがまためんこい。「めんこい」は「かわいらしい」の東北弁、北海道は東北からの移住者が多い。

 そうなのだ。運とか奇跡というものは実際にあって、「あいつ」と「こいつ」がなぜか続けて前後左右になるということがかならず起る。思い通りにならないのは、教師もおなじなのである。

 行事がありテストがあって半月、ひと月と過ぎて行く。そして、誰言うともなく「そろそろやろうや――」と声がかかる。「ああ、いいよ」と応じる。
 そこで役員が皆にはかる。今、「席替えをするか、どうか」と。たいていは過半数が賛成して、またまた「くじ引き」がはじまる。

 年に何回か、そうやって行なわれる「席替え」は、学級の大事な行事であり、お祭りでもある。一喜一憂しながら、しかし、度を過ぎて騒ぐのは、たまたま前後左右に座った友への無礼と気がつく。
 いつか、さりげなく、「運」を喜び、次を期待するようになる。そのことが学級の空気をたとえようもなくやわらげていく。
 時事ネタ「流産させる会」騒動 その2




 学級は36人、男女各18人、男子は18人のうち11人が「先生を流産させる会」に名を連ね、異物混入に加わったのは5人、残る6人のうち「そんなこと、やめとけや」(前掲「文春」)とブレーキをかけた者もいたという。

 いじめは、ターゲットがクラスメイトであれ教師であれ、首謀者が仕組み、加担者が実行し、多数の傍観者がいるという構図だが、加害者グループの中からブレーキがかかるというのは千に一つもない。
 なのにここでは、いじめ加害者としての「グループ名」までもちながら、メンバーの中からブレーキがかかっている。

 つまりグループにただよう「悪意」がそんなに強いとはいえず、「不登校生や障がいのある生徒」に配慮した「席替え」と「ひいき」と捉えて「報復」に出たとする学校側の説明には無理があるということだ。
 11人がそんなわからず屋どもとは思えず、神は細部に宿りたまうを借りていえば、学校は「細部」を巧妙にすり替えている、細部こそ教育の根幹、もっとも大切なことであるというのに。

 4月9日付「週刊文春」の見出しは「中1主犯格『逆切れ暴言』だったが、「暴言」の内容は「ミョウバンを入れたのは、(先生が給食の)味が薄いって言ったから、味付けしてやっただけだし」というもので、そこからうかがい知ることができるのは、「逆切れ」どころか、教室の中の力関係で「強い」生徒に、「弱い」教師が「こび・へつらっている」姿、子どもになれ合うことで担任としての位置をなんとか確保している図である。
 同じような例が、全国にどれだけあるかわからなくて、90年代、遂にというべきか、学級崩壊や対教師暴力が小学校に多発し、文科省の調査によれば2006年度、前年度の「6倍・12万件」のいじめの半数6万件が小学校に起っているというのであった。先に「小学校で起ったことと受け止めた方が納得しやすい」と書いたのはそういうことでもあって、中学や高校で担任教師がそんな風なら見捨てて、せせら笑いつつ「自分たち」で楽しむ、そのくらいには「大人」で、小学生にはそれができなくて荒れていると見ていいのではないだろうか。

 一週遅れ、4月17日付「週刊ポスト」の『渦中の女性教師からのメッセージ』は「標的」にされた女性教師への思い入れで構成されているが、「お腹の子供にも彼らにも未来がありますから」とか「しっかりと反省し、命の大切さを学んでほしいと思います」というとんちんかんな「メッセージ」が並べてある。
 これも「すり替え」の論理で、思わずというか本能的に言ってしまったわが身を守るための言説で、そんなことが問題になっているのではないだろう。

 しかし、この「週刊ポスト」のなにげない記述が事の真相を教えてくれたように思うのは、教頭の経過説明を「 」でくくった後に続く他の文「仲の良い友人と席を離されるなどして、不満をもった男子生徒11名がA先生への〝報復〟を申し合わせる。」だった。
 前後の関係から教頭か学校関係者のコメントにあったものと思われるが、この部分こそが、11人が「報復」に出た内容、動機であったと理解すれば「先生を流産させる会」騒動の顛末(てんまつ)はさもありなんと納得がいくのである
 時事ネタ「流産させる会」騒動



 愛知県半田市の中学校で起った「先生を流産させる会」騒動は、海外メディアにも配信されたという。アメリカで日本のいじめが、「IJIME」で通用し、妙な国だと受け止められたのが80年代半ばのことだった。今度もネーミングにぎょっとさせられて「妙な国」と印象づけるに足ることであったかもしれない。

 が新聞や週刊誌をひと通り見ての感想は、90年代、小学校に学級崩壊や対教師暴力が多発するなかで起っていることとさしてちがいはない。
 学級崩壊や対教師暴力は、別な言い方をすれば子どもによる「教師いじめ」で、今度の教師の給食に異物を混入させるというのも、手法としてはいじめそのものである。

 子どもが大人である教師を「いじめる」というのは変な話であるけれど、学校は、大人で指導する立場の教師のあり方・指導が、子どものそのような行動を誘発すると見て指導しなければ解決できないことがたくさん起る。つまり教師の「指導力」の問題である。

 中学校で起ったことであるけれど、中学1年は、小学校生活の延長で揺れ動いているようなもの、まだ中学生になりきれていないとも言えるし、担任や学年の教師集団が中学生として育てきれていなかったとも言えて、小学校で起ったことを受け止めた方が納得しやすいようなことではあった。

 子どもが「親の背中」を見て育つように、生徒も「教師の背中」を見て学校生活を送るしかなくて、子どもが「親の鏡」であるとすれば、学級の生徒がまた「担任教師の鏡」である。生徒が集団でとんでもないアホをやらかした背景には、担任教師のあり方・指導の是非が映し出されているかもしれないと見ることができて、そのくらいの度量がなければ、学校は、教育機関としての用をなさない。

 「単なる思い付きで、計画性はない」(2009年4月9日付「週刊文春」)とか「遊び半分と受け止めております」(4月17日付「週刊ポスト」)というようなことであるにしても、ニュースになるような行動に出た子どもたちには原因や動機があるわけだから、そこを解明してやらないと、学級・学年の指導が上手くいくことにはならない。

 教師と生徒は「教え・学ぶ」関係として、親子以上の上下関係にしばられている(関係がくずれたら、教室の秩序は保てない)から、ひとたび教師への鬱屈がたまると、生徒は、外部からではうかがい知ることができないような耐えがたさにさらされる。
 教師がダメなら反面教師としてそこからまた何かを学ぶという、ひと昔前ならあったようなことが、今の子どもたちには通用しない。生まれたときからそのような我慢は身についていないのだから、学校は、そういう子どもたちであるとの前提で納得させるように指導しなければならない。

 事の発端は、学校側の説明によれば「不登校生や障がいのある生徒」に配慮した「席替え」を「贔屓(ひいき)」と捉えた「一部生徒」によるものとされている。
 はたしてそんなことへの「不満」が、おめでたの女性教師を「流産」させてやるという悪意にかくも短絡的に結びつくものかどうかは疑問である。
 親が教師を認めるとき



 当たり前のことが当たり前なことでなくなっているけれど、家庭のことは親が解決しなければならないし、学校のことは教師が解決しなければならない。
 そして学校は家庭の子育てを引き継いで仕事をするのであるから、子どものプラスは大切に、マイナスは直してやるのが教師の役目というものである。

 親の子育てを教育として学校が引き継ぐのは、社会的役割分担のひとつに過ぎないが、子どもを社会的人間として送り出す教師の仕事は、外の職業にはない特別な使命をおびていると受けとめなければならない。
 そのゆえ子どもを通して常に家庭(親)に向き合って仕事をするのは、職業として教師を選んだ者の宿命で、親(家庭)の非を言って自らの責任を逃れることはできない。

 家庭と学校、親と教師の関係がそういうものである以上、教師の仕事は、家庭との連携、どこまで親と協力しあえるかということにかかっている。親の協力を得たいと思えば、子どもを評価して親に伝えること、つまり親の子育てを褒めてあげるということで、そのことに尽きる。

 自分探しとか、自分を褒めてあげたいなどというのはきわめて奇妙なことで、自分は自分にとって探すものでも、褒める対象でもない。他者によって認められ、褒められて自分は満足すればいいだけのことで、教師の仕事は子どもを認め、褒めてあげることであると言い切っていいだろう。子どもの存在を認め、褒めてあげるという営みをなくしたら、教師は教師でなくなってしまうし、親が教師を認めるのは、わが子の存在を認め、褒められたときだけである。

 子どもに褒めるべきものがないというのは有り得ないことであるけれど、もしそんな子どもに出会ったら、親に伝えてやれるだけの子どものプラスを育てることが教師の仕事と自覚しなければならない。
 その意味で教師の仕事はきわめて宗教的で、かつて共産党が主張して物議をかもしたように「聖職」なのである。

 日教組のスローガンに「よき組合員はよき教師」というのがあり、共産党の「聖職」論に「教師も労働者」をぶつけて対立したことがあるけれど、賃上げを要求してストライキを打つ労働者としての教師と、親の子育てを引き継いで子どものプラスを褒め、マイナスを直してやることが使命の教師の仕事は少しも矛盾するものでない。

 子どもを褒めてあげると脳が活性化するという調査研究があったように思う。しかしそんなことは親や教師の常識であったことなのではないだろうか。
 「育てにくい子」は「三歳でわかる」という調査があり、「三つ子の魂百まで」という言い伝えもある。気が遠くなるほどの時間のなかで検証されてきたのが言い伝えであるとすれば、科学的調査研究とは、近代というまことに結構な社会が、一番肝心な人の性質というものをゆがめてしまった、その跡を掘り起す作業であるのかもしれない。

 親の身勝手があるにしても、それは教師の出方(力量というべきか)でかわる。わが子が大切に扱われるとわかって尚、モンスターになる親はいない。モンスターペアレンツとは、教師の無力が招いた虚像、「身勝手時代」は教育が無力の証であるかもしれなくて、今、政治力が問われているのも実はそのことなのではないだろうか。
2009.04.08 身勝手時代

 
 身勝手時代

 学校は三月の卒業式でしめくくられて、四月、入学式でまた新たな1年がはじまる。
 そんなくり返しのなかで仕事をして、中学教師を定年で退職して7年。
 ただ時が過ぎていくのを見ているような日々だけれど、やはり、気になるのは四〇年間仕事をしていた教育現場のあれこれ。

 アキバ男の事件は昨年6月のことだった。まだ1年にもならない。なのにもう何年かたってしまったようにも思える。
 光陰は人を待たず矢のごとしといわれるし、年をかさねるのに合わせるように時の過ぎていくのが早く感じられる。
 にしてもアキバ男が引き起したような事件が、時が過ぎるのと同じにあつかわれて忘却のかなたに消し去っていいはずない。時々、立ち止まって振り返り、確かめてみなければならない事件というものはあって、その意味で秋葉原通り魔殺人事件は歴史的である。

 昨年、そんなアキバ男の事件に触発されて半年ほど表題の「いじめの加害者たち」について書いた。
 80年代から今日に至る教育現場のいじめは、従来の不良と呼ばれたワルたちによってなされた校内暴力的非行にかわる「いい親」の「いい子」たちによる新しいタイプの非行であった。その延長にアキバ男の事件があったと見ていいのではないか。

 父は大学教授、母が日本で最初の女性検事の家庭で兄が弟を惨殺する事件が起ったのは東京オリンピック(1964年)の年だった。母親は知らないが、身近に見た大学教授の父親は温厚な英国風ジェントルマン(当時、尊敬に値する意でそんな表現が使われていたように思う)であった。
 しかしそんな両親のもとで、兄は弟殺害の牙を研いでいたのである。

 その頃からだろう、わが子を「いい大学」から「いい会社」へと考える「いい子」の「いい親」たちが一部エリートだけのことでなく、一億総中流意識にのせられて一般化して今日に至っているのは。この20年間で私大の数は360校から570校に増えたのも「いい親」と、そして「いい子」たちの進学塾に後押しされてのことであったろう。

 ひと口に「いい子」の「いい親」といっても多様である。大学教授と女性検事の両親、アキバ男の両親、わが子を虐待し死に至らしめる男や女はそれぞれに違う。しかしそれぞれに「身勝手」であるということではとてもよく似ている。
 生活リズムに格差はあっても、身勝手で武装した人間の意識としては違いがなくて、行き着いたところで誰でもよかった殺人が起り、福祉がたかりや詐欺の舞台にされている。
 そして何事も「社会がわるい」式の言説が、そんな風潮を支え拡大してきたといえないだろうか。
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