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先生、やめてやネ



 教育現場の「問題」について何か考えようとすると、「教師」の問題にならざるをえなくて、どうしても何かしら「いやな感じ」になってしまう。

 教師になりたての頃、休みの日がいやだった。子どもに会えないし、子どもたちの声が聞けない。それで休み明けが待ち遠しかった。

 その頃、押せば写るバカチョンカメラというものがあって、学校の外からではなかなかわからない子どもの様子をカメラにおさめた。

 カラーコピー写真集を作りはじめたのは、コンビニに1枚50円のカラーコピー機が置かれるようになったとき、コピー代は親に負担してもらって「100年プリント」ならぬ10年か20年、親もとを離れた子どもを、親が懐かしむことができれば十分と考えてのことだった。

 テストを受ける中学生、中学卒業をひかえて次の進路を決める「三者懇」の様子など、めったに撮られることのない子どもの姿は、技術、画質を超えてほのぼのとした気分にしてくれる。




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「遺書隠し」小学校の「キティちゃん」先生



 いじめ自殺を隠し、遺書隠し、その跡始末のように北海道教育委員会は、「教師隠し」をして少女の命を闇から闇へ葬ろうとした。学校の安全を守ることが唯一の職務であるはずの教育委員会が、学校で犠牲にされた子どもの命まで隠そうとしたのであるから驚かされる。

 しかし2006年10月1日、読売新聞にスクープされて世に知られることとなり、「いじめ自殺」の連鎖を誘発し、文科省に寄せられた「自殺予告」の手紙は38通を教えた。
 それが北海道滝川発の「いじめ自殺」事件である。

 北海道滝川市江部乙小6年のT子さんは、修学旅行から帰って8日目、2005年9月9日の朝、自分の教室で首をくくって病院にはこばれ、2006年1月6日、意識不明のまま亡くなった。
 二ヶ月後の4月1日、T子さんの担任の「キティちゃん先生」が、ひっそりと夕張市に転任して行った。しかしそのときまだ、誰も、「いじめ自殺」のことを知らなかった。

 滝川市江部乙町は石狩平野の東部、ほとんど上川盆地と境を接するあたりの、国道12号線沿いの集落を中心に広がる田園のなかにある。
 国道沿いの「道の駅たきかわ」やローソンを中心とする集落はこじんまりとしていて、北海道ならどこにでもあるいかにも人情味あふれる地域のひとつであるけれど、全体が「隣り近所」であるような地域社会は、ひとたび「いじめ」がはじまると、加害者たちの悪意は執拗をきわめ、一方、教室の「居場所」を奪われた被害者に逃げ場はない。
 その上教師に「見ないふり」されたら万事休す、死ぬしかなくなってしまう。
 七通の遺書には、そうやって追い詰められて死をえらんだT子さんが、なんとか生きていたいと願った思いの跡が記されている。
 学校、滝川市の教育委員会、北海道教育委員会はそんな遺書を隠して、「いじめ自殺」そのものがなかったようにしようとした。

 北海道教育委員会は、「遺書隠し」発覚前の2006年4月1日、ひとつの人事を発令している。
 二ヵ月後、病院のベッドで家族に見守られてひっそりと死んで行ったT子さんの元担任、「30代」の男教師の人事である。
 転任先は夕張市の小学校。
 夕張市は全国に知られた財政再建団体の弱い立場、どんな「ダメ教師」を押しつけられても拒否できない。
 教員人事の世界を見ながら40年仕事をしていたからよくわかるが、道教委は、どこも引き取り手のない教師、しかし現任地にそのまま置くわけにいかない教師を、そのようにして「処分」した。

 元担任の「30代」の男教師の趣味は「キティちゃん」、車や部屋の中はキティちゃんグッズで埋めつくされてピンク一色、ベッドや枕カバーまで「キティちゃん」であったという。

 他人(ひと)の趣味をあげつらうことはないのだけれど、人が好さそうで弱々しい、しかし卑屈で傲岸な顔付きの男教師は、いじめ「加害者」の側に軸足を置いて愛称「キティちゃん」の陰に身を置くことで担任としての立場を守り、いじめ解消を訴えるT子さんを拒絶して自殺させてしまった。許されることでない。
 事件発覚後、「指導力不足とは思っていない」と述べた北海道教育委員会は、しかし、事件発覚にそなえるかのように「キティちゃん先生」を滝川市から夕張市へと動かす人事で、先手必勝ともいえるような処理を済ませていたのである。人事権を持つ道教委だけができることであった。

 ところが不思議なことに、男教師の「窓口」はなぜか今も「滝川市教育委員会」なのである。
 男教師の江部乙小在任は2年、同一校在任3年以上でなければ転任させない、というのが何十年か続いている道教委の「人事方針」である。毎年秋に、全道の教職員全員が人事の「希望調書」を出すけれど、そのとき示される方針にそのことも明記されている。
 もちろん特別な事情による例外はあるけれど、男教師に「結婚」とか親の「介護」などの事情はなかった。あとの経過を見れば、男教師は、教育現場の「不祥事」をただ隠そうとする道教委・市教師・学校の「手ごま」として翻弄されただけ、男教師にとっても不本意なことであったと思われる。

 道教委は、「遺書隠し」発覚前に、一度は男教師を滝川市から夕張市へと転任させた。
 しかし「遺書隠し」が発覚して、「いじめ自殺」の連鎖、「自殺予告」の手紙が文科省に殺到して、日本列島が「いじめ問題」で揺れ動くかのごとくであった2007年4月1日、今度は夕張市とおなじ教育局(道教委の出先機関)管轄の町の社会教育施設へと男教師を移した。男教師が「研修」を希望したからというのであったが、一日、施設の机に「窓ぎわ族」のように座っていることが教師としての研修とは、いくらひまをもてあます行政のやり方としてもあまりな采配である。
 そして2008年4月1日、ほとぼりがさめるのを見透かすかのように男教師は、再び夕張市の小学校に戻った。

 その間、T子さんの遺族の方は、男教師の後を追い続けた。
 せめて「いじめ」の真相を知りたい、そのために元担任教師の話を直接聞きたいと願ってのことであったが、当該校や施設から拒絶された理由が「窓口」は「滝川市教委」である、そこを通せというのであるから筋違い、そんな理不尽なことはない。
 男教師の所属は、「滝川市」から「夕張市」へと移っている。なのに「滝川市」が「窓口」というのは、夕張市への転任にあたって、「いじめ自殺」にかかわって夕張市には一切の迷惑をかけないという「約束」のもと、夕張市は受け入れた、道教委は受け入れさせたということなのであった。
 行政というのは、不都合隠蔽のためには何でも有りのようであるが、そんな面倒を引き受けた滝川市にはまた、別の事情があったと思われる。
 多少、脇にそれてしまったついでと言っては何であるけれど、次に、そのことにも触れて、「30代」教師があぶり出す行政の「魑魅魍魎」を見ておくのも無駄なことではあるまいと思う。
 カッターナイフ殺人と二人の教師 その2



 四月、始業式があって、新一年生を迎える入学式が行われ、新学期がスタートする。
 その新学期、担任教師が初めて児童生徒に向き合ったとき、「夢と希望」を語り、「努力」を呼びかけないような教師はいない。おそらく一人もいないだろうと思う。
 持ち上がって担任がかわらないときにも、何かあらたまった気持ちを児童生徒と交わし合う、それが新学期の教室の光景というものである。
 ところが、こんな話をした担任教師がいる。

  トラブルは自分たちで解決しなさい。
  ケンカは授業中と教室の中でやってはいけない。
  このほかの場でケンカをしても、先生は止めないから、呼びに来なくて     もいい。

 もう一人の「30代」の男性教師、女性教師から崩壊した学級を引き継いだ男が、6年生になった子どもたちに向って、最初に、言ったことである。

 新学期がスタートしたらほどなく「授業参観」が組まれ、そのあとに学級懇談、そしてPTA総会と続くのが大方の小中学校の例である。
 その学級懇談の席で、今度は親に向って「この学級は持ちたくなかった」と、「30代」の男教師は言ったという。話したとか、語ったというのさえはばかれるように、この男は、子どもたちを侮辱し、親たちをあざむいたのである。

 新学期、子どもと親が願いをこめて思うのが、「担任は、どんな先生だろう」ということである。
 子どもが親を選べないのとおなじ、先生を選べない子どもたちが「どんな先生が、担任になってくれるのだろう」との熱い思いを抱いて新学期を迎え、願いがかなったときに、子どもと一緒に赤いご飯で祝う親の話さえ聞いたことがある。
 そのくらいに担任教師は、子どもや親に期待をかけて待たれる。外の職業にはない、教師冥利につきるようなことであるけれど、子の願い、親の願いを平然と踏みにじったこの男は、小学校最後の一年をスタートさせようとしている子どもたちの前に、「担任教師」として登場したのである。

 そして二ヶ月後の6月1日、4校時が終り、係の子どもたちが給食の準備をはじめる。
 A子が、「ちょっとおいで――」と怜美さんを学習室に誘い出す。
 まさか「仲良しツーペア」の相手に殺されるなど思いもしなかった怜美さんは、騙し討ちのように惨殺されてしまうが、事件がわかって騒ぎ出すまでの約20分間、この男教師が「どこ」で「なに」をしていたか「わからない」というのが学校と市の教育委員会の見解である。

 惨殺された怜美さんの様子はあまりにむごくて、新聞は「タブー」ということだろうか、その詳細を教えてくれたのは週刊誌である。
 A子は、怜美さんを殺しただけでない。
 事件後、A子の「殺しても殺し足りない」のメモが発見されているが、惨殺したあと、怜美さんの顔が変形するくらい、何度も何度も蹴り上げている、というのが捜査関係者の証言である。

 A子の怜美さんへの「憎悪」は、女の子の世界が醸し出す「特別」なものと思われるが、女の子のグループは、「ツーペア」がいくつか合わさっている場合が多く、ツーペアを持たない女の子はいつグループから外されるかわからない。そのゆえ「ツーペア」相手の「争奪」は熾烈をきわめる。
 ぼくが「美少女いじめ」としてあつかうのは、そういう女の子の世界で、「かわいらしくて、美しい」ことから「いじめ」のターゲットにされる場合だが、この「カッターナイフ殺人」も、「美少女いじめ」の理屈を当てはめて読み解くことができる、とぼくは考えている。

 ともあれ、この世のこととは思えない残虐な犯罪が、白昼の教室で起った、その次の日、この小学校は、通常通り子どもたちを登校させ、授業を再開している。「給食の準備がされているから」というのが、市の教育委員会の説明であった。

 事件の翌日、子どもたちが登校して、授業がはじまった。
 しかし、その日、担任の男教師は入院してしまう。
 そして、ほとぼりがさめた夏休み明け、「マスコミに追われたら、なんと説明するのだ」と「心配」する教育委員会を振り切って、「早く、復帰したい」と学校に戻って来る。

 男教師の「身勝手」はここにきわまるであるけれど、女性教師が「教室管理」ができなくて、学級を崩壊させたとすれば、学校や市の教育委員会は「教師管理」ができなくて、世間には説明がつかないような体たらく、教育を崩壊させていると言うしかない。

 こだわりの「30代」教師のもう一人が見せてくれた顛末は以上であるけれど、もし、担任がかわらないで持ち上がっていたら、事件はなかった、というのがぼくの考えである。
 学級を崩壊させた女性教師の無力ぶり、教師としてのその不適格を支持するわけではないけれど、5年から6年にかけてのA子の動きを子細にながめると、「ダメ教師」の学級には、それなりにA子の「居場所」があって、友を「ライバル」として殺す必要がなかったと思われるからだが、そのことを語るためにはA子と怜美さんの家庭の比較や、全く何もしない・できない学校の無力ぶりについて触れなければならない。後で、また改めて、ということにしたい。
カッターナイフ殺人と二人の教師



 さて、こだわりの「30代」の教師について、多少具体的に触れようとすれば、世間を震撼させた事件との関連を指摘しなければならない。

 まずは2004年の「カッターナイフ殺人」、この事件が起った学級に関与した男女教師(5年と6年の担任)がともに「30代」だった。

 事件が起る前の年、つまりA子と被害者御手洗怜美さんが5年のとき、担任は、30代の女性教師だった。
 5年生の悪ガキたちが、担任を小馬鹿にして好き勝手をする。
 女性教師はそれを、抑えることができなかった。そして我慢できなくなると、ヒステリックに泣きながら教室をとびだしていく、その繰り返しであったというのだから末期症状、学級は「崩壊」していたと見なければならない。

 担任であれ、教科の担当であれ、教師が一歩教室に入ったら、学習活動の前提条件としての「教室管理」は自分「一人」でやらなければならない。
 児童生徒を納得させて、教室の秩序を整え、維持して、学習活動(それがホームルーム活動、授業のいずれであっても)をすすめなければならない。
それが教師としての仕事だが、女性教師にはそれができなかった。

 「先生を流産させる会」騒動の女性教師の場合もおなじであった。
 「授業中に喋っていて注意されると、『はァ?』といってにらみ返したり、朝、先生が挨拶しても無視したりしていました」(前掲「週刊ポスト」)というのであるから、泣きながら教室をとびだすことはなかったにしても、「無視される」ことを「無視する」ことで教師としてのプライドをなんとか保っていたと思われる。

 二人の女性教師に共通するのは「指導力不足」ではあるけれど、「教師不適格」でもあって、そんな教師が全国にどれだけいるかわからない。
 文科省の調査で「指導力不足」教師は、全国で四、五百名(以下)ということになっているが、それは箸にも棒にもかからないような場合で、ここに挙げたような例も含めれば数千でもなくて、数万人(全国の小中高教師は約90万人)くらいにはなるだろう。
 文科省や教育委員会がしなければならないのは、「いじめ」など子どもに関する調査より、教師についての実態をつかむことだと思うけれど、そこに触るのは火薬庫に火をつけるようなこと、そのゆえ「タブー」にしているし、マスコミも深入りはしない。そのすき間をついて、事故・事件が起っていると見ていいのではないか。

 ついでだから、嘘のような本当の話を一つ紹介しておきたい。
 優秀な人材の「高偏差値」教師が教育現場に入って来たところ、近隣の小規模中学校にいた若い女の先生が「私は授業がしたいのです。でも、生徒が静かに授業をきいてくれません。先生方、どうぞ生徒たちを静かにさせて下さい。そうすれば私はどなたにもひけをとらないような授業をお見せすることができますから」
 と訴えて話題になったことがある。

 ひと言でいうなら「児童生徒との関係がつくれない」ということなのである。「でも・しか先生」やわれわれが、教壇に立ったその日から普通にできたことが、「優秀な人材」教師にはできない。子どもとの関係がつくれないのだから、言うまでもなく親との関係もつくれない。

 当時、日教組は「わかる授業・楽しい学級」をかかげて活動し、意気もさかんであったけれど、「楽しい学級」をつくることができなければ、「わかる授業」にはならないのである。
 結局、その若い女の先生は辞めたけれど、そしてそれは当然のことであったけれど、いま、そういう教師が増え続けているということではないだろうか。

 長崎県佐世保市の「カッターナイフ殺人」にもどるけれど、5年担任の女性教師は、追い詰められて行き場がなくなったか、学年末の3月になって「休職届」を出した。
 しかし、校長と市の教育委員会は受理しなかった。
 そんな時期に「休職届」を出すことが異常なら、受理しなかった市の教育委員会と校長の対応はもっと異常といわれなければならない。
 そんなことになる前に、担任を入れ替えてやることが子どものためであり、何より女性教師のためであった。

 そして二ヶ月後に、事件は起る。

 オウンゴール教頭 その2





 オウンゴールを指示したのは、新潟県の中学校の教頭、サッカーコーチでもある47歳の男だった。決勝トーナメントの組み合わせを有利にするためだったという。

 甲子園を目指す高校野球の地方大会でも、組み合わせが決まると監督・選手、親たちが一喜一憂するのは、一つでも多く試合がしたい、観戦したいとの思いだが、それにしても6連続オウンゴールとは。試合の関係者は、その異様さを、どんな思いで見つめていたのか。

 47歳といえば1960年代前半に生まれた新人類、この「新人類」が流行語大賞に選ばれたのが86年のことだった。
 その80年代以降、「いじめ」がいくたの惨禍をもたらして現在に至っている。

 そして、いま「30代」の教師は、80年代以降の「いじめ時代」に、中・高校生だった。
 いじめの「首謀者」「加担者」「傍観者」のいずれの立場かで、教室のいじめの渦中にいたことになる。
 いじめを止めさせる教師に出会ったかもしれないし、逃げて「見ないふり」の教師を目のあたりにしていたかもしれない。

 「いじめ時代」とは、いまになって言えること、当時は「三無主義」とか「五無主義」がいわれ、中・高校生の「無気力・無関心・無感動」が、教師の愚痴として語られる時代であった。
 つまり、「新人類」の若者に続いて、「三無主義」の中・高校生たちが世に出たということになるが、受け皿としての学校・教師が何をしたかは、ほとんど語られることがなかった。

 その「新人類」世代が、すでに、学校の「管理」を担う教頭・校長になっていて、たまたま47歳の男が、オウンゴール教頭としてその姿の片りんをかいま見せたとすれば、「三無主義」世代の「30代」の教師があずかる教室で、「先生を流産させる会」が誕生したというのもゆえなしとしない。
 いつでも事は、そんなに意外でないくらいには、必然性に誘導されているものである。

 新人類とか三文主義といっても、それは多分に気分的、情緒的で、時代の御都合主義があみだした「レッテル」に過ぎないともいえるが、しかし、80年代以降、教壇に立つだけで足がふるえるとか、教室のうしろまでとどく声が出せないからと、半月ほどで辞めてしまう若い先生を見てびっくりさせられたのもまた、たしかな事実であった。

 「人材確保法」という法律は、高度経済成長後の「豊か」さの余勢をかつて、「教員に優秀な人材」をというのが立法の趣旨であった。
 そして80年代以降、「優秀な人材」教師が教育現場に入って来るようになる。
 つまり、80年代は、三無主義などといういまわしいレッテルをはられながら、中・高校生は、「いじめ」をはびこらせ、そこに期待の星である「優秀な人材」教師が登場してきたということである。

 ひと足先に教壇に立っていたわれわれが、「優秀な人材」教師に期待と好感をもちつつ、多少の揶揄をこめて「高偏差値」教師とよんだのは、うらやましさやある種のやっかみがあってのことであったかもしれない。
 敗戦後、仕事のない若者が詰めえり学生服のまま教壇に立って「でも・しか先生」と呼ばれた。
 その後に続くわれわれは、教員養成大学か私大の通信教育で教員免許を取得するのがやっと、つまり、教師は、多少は頭がよくて貧乏な若者が目指す職業であったのだ。
 そこに、有名国公私大出の教師が登場してきたのである。正直、そんな立派な大学を出て、なんで教師なんかに、とぼくらは思った。しかし、「立派」な大学出身の「優秀」であるはずの教師は、実は、あまり役に立たなかった。

 何人もの優秀な「高偏差値」教師とともに仕事をしたから、その「実力」はよくわかっている。
 しかし、一方に、真面目で優しいけれど、元気、気力、迫力に欠ける教師もめずらしくなくて、教壇に立つだけで足がふるえるというのは例外としても、会議で発言しない、職員室でおしゃべりしない、とりわけ子ども(児童生徒)のことを語ろうとしない教師がふえていく。
 それは、飲み会のなかでさえ、子どもたちのあれこれについて語り、しゃべりちらし、道を歩いているだけで、「あれは、先生――」とわかるといわれたわれわれから見ると、「異様」ともいえる沈思黙考ぶりで、それはそのまま小学生相手に「怖がっている」教師の姿に重なるのである。

 やがてのことに校内暴力的非行、対教師暴力、いじめなどすべてが低年化(というのも変な話であるけれど)の一途をたどり、90年代に小学校が荒れはじめる。
 「先生を流産させる会」も「オウンゴール教頭」も、そんな時代の教育現場に咲いた「あだ花」と見れば、なんの不思議もないのである。

 オウンゴール教頭




 不良でなくて、成績も中から上の「普通」の中学生11人について、「恐るべき幼さ」(2009年4月17日号「週刊ポスト」)と言われれば、ま、そうだよな、とは思う。

 しかし、子どもが幼いのは、親が幼いこと、児童・生徒の幼さは教頭の幼さでもあって、三歳の子を見て親がわかるとすれば、教室に一歩入ったら担任教師がわかるというのも事実。
 今日日、やっかいなのは、上は総理大臣・政治家から、下々の民・百姓である国民・市民までおしなべて幼いわけで、万引きも大人・老人の仕業になってしまった。
 学校の「きまり」を社会全体のものとして広げていかなければ、おさまりがつかないような時代に生きていると、お互い、自覚しなければならないのかもしれない。

 大阪で9歳の女の子の行方がわからなくなって、やがて、34歳の母親と、38歳の男と、42歳の知人の男が取り調べを受け、女の子が通っていた小学校の校長は、「一番悔まれるのは、欠席中に電話だけの対応だったことです。」と目を伏せ、うつむきながら、「(声を)絞り出すのがやっとだった」(4月25日付「北海道新聞」)という。
 校長だから、50代だろうか。

 親による子ども虐待がふえるなか、「相談」を受けるはずのお役所が、虐待者の意を受けて仕事をするのだから、子どもの命はいくつあっても足りない。
 校長も、そんな児童「相談」所の「偉(えら)い」さんにどこか似ているけれど、ここに登場する30代、40代、50代の「おとな」は「大人」といえるのだろうか。

 中学生11人の「報復」(前掲「ポスト」)を受けたという担任の女性教師がまた、9歳の女の子を「消した」らしい女や男とおなじ、30代であった。
 30代といえば、教師としてほぼ10年の「キャリア」、「普通」なら、職員室の中核的戦力として、学校全体を見渡しながら仕事をしていなければならない。
 なのに、中学1年の学級のひとつをまとめることができなくて、世間の注目をあびて、あびさせるようなことになってしまった。
 年令に、そんなに大した意味があるとも思えないが、ここでは、「30代の教師」というものに少しこだわってみたい。

 教育現場に起った、戦後最大の猟奇的、驚愕的、吃驚仰天など、いくら形容詞をかさねても足りないくらいの歴史的事件といえば、2004年の「カッターナイフ殺人事件」である。
 佐世保市で小学6年の女児A子が、仲がよかったクラスメイトの首をカッターナイフでかき切って殺した。
 そのとき、「A子を死刑にせよ」と発言したのが、当時、タレント弁護士だった橋下大阪府知事である。週刊誌のエッセイのなかで、法理論の不備をつきながらの主張は一読、二読、三読の値があると思った。
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