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こんな男に誰がした




 「負けっぱなしの人生だった」
 として無差別殺人をやってのけたのがあの秋葉原男だった。
 「自分だけが苦しい思いをしている。誰かに八つ当たりしたくなった」
 というのは大阪パチンコ店放火犯の言い草だった。

 裏を返せば他人(ひと)のしあわせが羨ましかった、ということになるだろうか。もしそうであったとすれば、その気持ちはよくわかる。そう思って生きているというのは少しも珍しいことでなく、お互い、羨ましいと思うことはいっぱいある。
 が他人(ひと)を羨ましいと思うことが殺人の動機になるとしたら、理不尽に命を奪われるひと、その家族にとってはたまらない。

 中大教授殺しのときには「逆恨み」による犯行か、と言われた。とすれば卒業して何年にもなる元教え子が、教授の何を恨み、教授は何を恨まれたというのか。
 取り調べを待たねばならないが、世間を納得させるほどの動機が隠されているようにも思えない。

 教授の評判から推し量れば、逆恨みというも、平たく言えば教授のへの妬み(ねたみ)であったようにも思える。
 教授(45歳)と元教え子(28歳)の関係といっても、先輩と後輩ほどの年齢差しかなくて、すでに結婚して子どもがいても不思議でない年頃になっている「自分」が、定職もなくさまよっているというのに、相手は天下の中大教授、ちょっとひがんで対比すれば、目がくらむほどの立場の違いに思えたかも知れない。

 そのとき「自分」が天下の中大卒業生であるという「しあわせ」には思いが至らなくて、ただ羨ましいと思うことが殺人の動機で、「逆恨み」殺人がそういうものであったとすれば、教授は、「負けっぱなし」男の、「八つ当たり」の対象にされて命を奪われたことになる。

 ほどほどに心して、多少とも第三者的に「自分」を受け止めれば、理不尽に他人(ひと)の命を奪わねばならないほどの「不しあわせ」が、この国にそう多いとも思えない。
 が秋葉原男や放火犯、教授殺し男の意識を「針小棒大」ということわざに当てはめれば、「不しあわせ」と思う自分の気分が「棒大」で、他人(ひと)の命が「針小」ほどのものでしかなかったということになる。

 「こんな女に誰がした」
 は敗戦のとき、衣食住さえままならなかったときに、街角に立って身を売るしかなかった女たちを歌ってヒットした「星の流れに」の一節だが、いま、「年越し派遣村」のようなことがあるにしても、高度経済成長というようなものがあり、「1億総中流意識」が言われた後の太平がそのままに続いていて、衣食住に事欠くわけでない。
 なのに「こんな男に誰がした」と言わねばならないのであろうか。

 作家の倉橋由美子が「貧しさは残しておかねばならない」と繰り返し言っていたのは、高度経済成長のさなかや、1億総中流意識が喧伝されているときであった。
 豊かになるための努力よりも、豊かさのなかで互いを生かし合うことの方が難しいとすれば、そんなにも無力な存在の人間がうとましくなる。
 途上国といわれる貧しい国に生きるひとたちのあの優しげな表情に、先進国といわれる豊かな国に起る凶悪な犯罪を重ね合わせて思いめぐらすとき、倉橋由美子が言った「貧しさは残しておかなければならない」には特別な意味があるように思えてくる。
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父の物語 ――「歸國」 その3




 ノンフィクションによって明らかにできる「事実」というものがあり、「真実」もあるだろう。けれどどんなに精緻で緻密な事実調べからも抜けおちる「事実」はあるし、「真実」を知ることがさらに困難であるのがひとの存在の有様、その心、精神というものなのではないか。

 セルバンテスの「ドン・キホーテ」ほど有名な架空の人物はいないが、いまではほとんど実在した人物のように扱われていると中村光夫は述べていて、それは「主人公の人柄の美しさ」、またはそこに「自ら浸み出たセルバンテス魂の高さ」だが、それを可能にしたのはセルバンテスの「語り手としての異常に豊かな才能に帰着する」と言うのである。

 富良野からの帰り車を走らせながら、「ドン・キホーテ」について中村光夫が教えてくれたことを、「歸國」に重ねあわせて、ぼくは、「父に逢えた」ということを自分に納得させていた。
 「歸國」はあの世がからむお話で、主要な登場人物が死者である「英霊」たち、荒唐無稽ともいうべきフィクションである。

 がフィクションがノンフィクションを超えることがあることについての理屈は、中村光夫が「ドン・キホーテ」について述べていることで十分で、古典がつまりはそういうものであるとすれば、「歸國」は、古典がもつのとおなじような力で観客に語りかけたということになるのではないか。

 ぼくのような立場の観客は、むしろ少なかったと思うけれど、終演後のあのカーテンコールは、作品の「美しさ」、作者や出演者たちの「魂の高さ」に応えるものであったように思う。

 ノンフィクションのうさんくささについて述べているのは倉橋由美子である。読む気も書く気もないというのだがら徹底している。この倉橋由美子と中村光夫とは、明治大学で恩師と教え子の関係だった。
 先に敗戦後の写真、タバコ少年について触れたが、その頃、子どもが「大人」であったとすれば、いまは大人が「子ども」であると言わねばならない。

 いま、大人の幼さについて書いたり語るひとは珍しくもないが、いちはやくそのことを指摘したのも倉橋由美子であったように思う。
 倉橋由美子が「成熟停止型人間」と言う場合、幼稚人間のゆえ鬼畜に成り下がる「誰でもよかった殺人者」のようなやからを指してのことではない。作家、評論家、大学教授など言うところの「知識人」たちが「幼稚」だと言うのである。

 「文学的人間を排す」は1970年、倉橋35歳のときに書かれているが、「文学的人間」を「排す」のは「精神的小児」であるからだとした上で例示するのが、文学青年(または少女)、映画青年、哲学青年、その他「芸術」づいたあらゆる老若男女、いわゆる「新左翼」、大学教授その他の文化人、ジャーナリスト等々がふくまれるが、作家の多くが文学的人間中の文学的人間である、と。

 このエッセイの中に人名は出していないが、例えば、埴谷雄高、島尾敏雄、大江健三郎などを論じたものはとてもわかりやすい。そのゆえに無視されてきたわけだが、プロにしか書けない名文として壷井栄「二十四の瞳」を上げる一方で、それぞれの世界で神様のような存在の「大御所」であっても駄目はダメをつらぬく。哲学者西田幾多郎の文章は、「ほとんど寝言」だし、中国文学者吉川幸次郎は「いささか音痴の人の歌を思わせる文章」だと。

 そんな倉橋由美子が唾棄するのは、戦後のえせ平和主義や民主主義、とくに「民主教育」は「戦後の教育という肥溜め」なのだからどうしようもないと言い切る。
 「歸国」は、その「どうしようもない」この世を、あの世の英霊たちに「たしかめさせた」物語、今後のスタートライン設定の物語であったと言うこともできる。
父の物語 ――「歸國」その2





 「歸國」は、あの世とこの世の物語である。
 あの世とは、「15年戦争」とも言われる長い長い戦争のときに、一緒に戦って、一緒に死んだ、そしていまも大陸や南海の弧島、海底深くに「英霊」となってただよい、天国にも地獄にもたどり着くことのできない戦死者たちである。
 この世とは、遊びほうける若者や、親の最期もみとろうとはしない大人たちが生活する、あの「敗戦」から60余年後のこの国である。

 英霊たちは、一夜、東京駅に下り立って、この国の様子、この国に生きる人たちを見る。知る。そして、言うまでもない、絶望――。
 オレたちは、誰のため、何のために戦って、死んだのかと絶望して、しかし、「自殺」することもできない英霊たち。

 一方に「平和」と「豊か」に餌食して、家族の中で殺し合い、1年に3万人以上が自殺し、「年越し派遣村」に列をつくり、教育現場には「いじめ」がはびこり、「いじめ自殺」が跡を絶たない。――

 圧巻は、「終章・海」である。
 倉本聡作・演出の台本をそのまま示すと、

  その底からゆっくり湧き上る英霊たち。
  英霊たちは客席に向かって大きく悲し気に何かを訴えつゝ、腰
  の牛蒡剣をギラリギラリと抜く。
  そしてその剣を舞台前面の客に突き付けると、悲し気に背を
  向け、荒波の中へとスローモーションで去って行く。
  
  暗転。
  音楽―――――静かに入る。            ――幕――                                                                                                            

 幻想的で、限りなくリアル。
 映像なら、どんなアクロバット的演出も可能であろう。しかし、舞台。どんなに技術をつくしても、やれることには限りがあるはずと知っている。なのに――。
 怒涛渦巻く荒波が客席におしよせてきて、英霊たちがぼくらに向って来る。そして去って行く。

 そのとき、ぼくは、ああ、そこに、父がいる、と思ったのである。
 記憶はゼロ。話したことがなく、顔を見たこともない。
 そんな父に逢いたい、一度でいい話をしてみたかった、と思いはじめたのは、父の二倍以上の時間を生きて、自分の命の光が見えはじめる頃になってからだった。
 小さいとき、若いときには格別の思いもなくて、母がいて、育てられることに足りていて、お盆におまいりすればいいことだった。
 なのに、なぜ、父に逢いたいと思うのか、自分にもわからなかった。そして、やはり、わからない。
 しかし。ぼくは、父に逢った。まちがいなく、父が、ぼくをたしかめて、そして、去って行った、と思える。

 思いをもてあましつつ、ぼくは、富良野を後にした。
 出演された方々が見送って下さった。
 出口に近いお二人に握手をしていただいた。
 全員の方に握手をしていただくのだったと思いつつ、ぼくは車を走らせた。
父の物語―― 「歸國」


 七月初めの週末、石北峠を越えて富良野まで車を走らせた。富良野演劇工場の「歸國」を観たいと思った。
 旭川まで国道39号線を走って左に折れ、国道237号を富良野まで約60キロの道中には美瑛の丘などがあり、畑が一番美しい季節である。

 「畑で作物が育つのを見ているのが一番いい」
 と言うのが口ぐせだった母は、畑が観光の名勝になるなど想像もつかなかった時代に、生きるための唯一の手段として農業に従事し、日々成長する作物を友として生きたのであったろう。
 富良野までの道筋には、そんな母がよりどころにしたのとは異なって、いかにも人をあつめるために飾られたように美しい畑が広がっている。
 よく晴れて暑い日のもやのなかには、十勝岳連峰がぼんやりと姿をあらわしていた。
 富良野演劇工場はその十勝岳連峰のふもと、小さな町の奥まった小高い丘の林の中にさりげなく、ひっそりとあった。

 そこで「歸國」を観た。
 二時間に満たない舞台は、母の農業とおなじに華やいだものはなかった。
 「演劇」の「工場」が問いかけたのは、いつの世にも当たり前なあるべき人の姿であった。

 ぼくは、そこで、父に出逢った。
 昭和19年8月2日、南太平洋の孤島テニアンの玉砕で戦死した、ということになっている父に逢うことができた、逢わせていただけたと言うべきか。
2009.07.07 希望は戦争
 希望は戦争




 と言うのは「誰でもよかった殺人」よりもっと酷いことだ。言うまでもなく「戦争」は、国家による「誰でもいい殺人」であるのだから。
 フリーライター赤木智弘(33歳)によるこの「希望は戦争」を、「本当は戦争なんてしたくない。しかし絶望から発言せざるを得ない。『逆説』ですよ」(2008年8月14日付北海道新聞)と共感らしき理解を示す吉本隆明のような人もいるし、「若い世代の声なき民の声」と支持する若者も少なくないという。

 どんな「絶望」かたしかめたくもあるけれど、ともあれ戦争に希望を託する赤木が「彼の行為は絶対に許されない。けど、世の中に認められてこなかったのは、僕も同じ」と(取材)記者のそばでつぶやいたという。「彼」とは、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大容疑者(25歳)のことである。
 加藤が世の中に認めてもらうためにどんな努力をしたかは不明だが、事件の報道からわかるのは、彼のあまりな「幼さ」、その「甘ったれ」ぶりである。

 希望は戦争、とは仮に戦争になってもう一度焼け野原にされれば、オレたち「若者」にもチャンスは巡る、と言うのであったかも知れない。
 けれど言い出しっぺの赤木はともあれ、秋葉原事件の加藤や中大教授殺しの山本などもその「若者」に数えるのなら、まず兵士として使いものにならない。まして焼け野原でしぶとく生き残る算段などできないだろうと思う。

 ためしに「敗戦」の「時」を写した写真集をめくってもらいたい。広島や長崎の原爆の写真がある。東京大空襲で焼かれて炭化したようになって道ばたにころがるたくさんの死体がある。上野駅頭にころがる餓死者は敗戦の混乱がひと区切りついてからのものだが、その気になれば「逆説」としても「戦争」が「希望」と言えるかどうか、わからせてくれる写真はいくらでもあるのだ。

 ぼくのおすすめは、たとえば、ボロをまとった小学生くらいの子どもが、平然とタバコをくゆらしている写真である。その面魂(つらだましい)は「大人」そのもの、とても十歳やそこいらのガキには見えない。
 それは「敗戦」という「時代」がつくった「顔」で、甘やかされて育ち、自意識だけを肥大させて「絶望」している加藤たち、山本たちの顔とは本質的に違うものである。理屈はいくらでもつくれるけれど、都合よく顔はつくれない。顔を見ただけでわかる、とも言えるのはそういうことである。

 戦争は「勝った」として、ただでは済まない。
 オバマが大統領になって、米軍のイラク撤収がはじまっているけれど、あのように「局地」的で、小競り合い程度の「イラク戦争」でさえ、戦力・武器で圧倒的に優位な米軍兵士が四千人以上も戦死している。
 無事に帰国できたとして、自殺したり、心が病んで社会復帰できない元兵士が少なくない。彼らのなかから銃を乱射する「誰でもよかった殺人」犯もでている。

 アメリカ国内では、ベトナム戦争以降、戦場から帰還できたけれど社会復帰できない病める元兵士の問題が、隠された社会問題になっているのである。
 この帰還兵士の心的外傷後ストレス障害が、アメリカ社会にもたらしている影響が拭い去られてなくなるまで、数十年は要する、というのが古今の戦争の兵士の行動を読み解いた『人殺しの心理学』の著者グロスマンの「見通し」なのである。
 誰でもよかった殺人




 こんな理不尽な犯罪もないけれど、この国が歩んできた道筋を思い巡らすと、当然の成り行きであったような気もする。
 百年に一度の経済危機というけれど、あの「敗戦」のときからまだ60年ほどしか経っていない。この60年余り、ひたすら「豊か」さを求めて「真面目」に努力してきて、何が残ったか。
 誰でもよかった殺人が珍しいことでないように病んでしまった社会だった、とすればいま「二度目」の敗戦を迎えているようなこと、と言わねばならない。

 ここで「誰でもよかった殺人」とは、秋葉原や池田小のような「無差別殺人」だけを指すのではない。
 見ず知らずのひとをいきなりホームから突き落として殺すのも、父親を困らせてやりたいからと車を暴走させて赤の他人を轢(ひ)き殺すのも、さらにはカッターナイフ殺人や中大の教授殺しなど、被害者にとって何で殺されたのかわからないし、殺人犯がまた煮ても焼いても喰えないような悪人ではなくて、周りから「普通」に見られて「普通」に生活していたはずの人間が、いきなり「殺人犯」として登場するような犯罪すべてを含ませてのこととしたい。

 二度目の敗戦とは、そんなにも精神が病んでしまった「精神危機」のこの国のいまは、「経済危機」よりはるかにもろくて危うい、取り返しがつかない状況であるかも知れないというほどの意味であるが、「犯罪」は時代を推しはかるバロメーターであるということにも思いを馳(は)せて、われわれの精神のあり方に眼を向ける必要があるのではないだろうか。

 五月病と6月の衝動 その2


 

  かつて大学生の「五月病」が言われたことがある。
 ありていに言えば「うつ」、入学して大学生活に慣れたと思われる「五月」に、無気力怠惰な学生が増えて、大学当局も扱いに苦慮するというのであった。

 しかしその頃、「誰でもよかった殺人」はなかった。
 11才の女の子が「仲良しツーペア」ともいうべきクラスメイトの首をカッターナイフでかき切って殺すなど想像もつかないことだった。
 まして大学キャンパスの中で、大学生(卒業生)による教授殺しなどありえぬことであった。

 五月病が、少しばかり学生の心が病んで憂鬱になるようなことであったとすれば、6月は「殺しの季節」と言わねばならないくらいに、凶暴理不尽な犯罪が起って今日に至っている。
 その間、この国は、ひたすら病める心を育んできたということになるのだろうか。

 生い立ちや家族関係、つまりは親の「子育て」の責任はもちろんある。捜査や裁判のなかで、そのことが具体的に明らかにされて、社会として共有されるようなシステムづくりは是非急がねばならない。

 しかし「普通」の人間が、きわめて「異常」な犯罪へと「踏み越え」てしまうそのことは、生い立ちや家族関係だけではない。この国の社会の状況、ひとびとのあり方の問題として考えなければならないことのように思える。

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