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人ぐすり翔太の夢




 職員室は教師の仕事の場ではあるけれど、くつろぎの生活空間でもあって、職員室を出て授業のために教室に向い、授業を終えて教室からまた戻ってくるところで、授業がない空き時間教師なら40分か45分、あるいは50分のあいだ思い思いに過す。
 授業のあいだの「10分休み」、出入りする教師に児童生徒が加わって一時、おだやかな喧噪のときがあって、昼休みや放課後にはまた少し違った雰囲気になる。

 そんな職員室を久しぶりに訪れたのは、退職のときの中学校が教育実習するのを見せてもらうためだった。
 道内の私大から3週間を与えられて母校に戻り、教員免許を取るための実習をする。夏休みをはさんだ前後の季節、全国どこの小中高校にも見られる光景で、リクルートスーツ的初々しさではにかむ教師の卵がもっとも緊張する場面ということになるだろう。

 学年4学級の12学級、教職員が40人ほどの中学校の職員室はそれなりの大きさがあって、外からのひとの眼にはどう映るかわからないけれど、丁度10年間勤務した元職場のことであるから、教師のほとんどが入れ替わっていてもそれぞれの先生が何を思ってどう過しているかは、家の中の家族の動きを見るようによくわかる。

 ああ、懐かしい、と思っているところに翔太があらわれた。教室から戻ってほっとした様子で、職員室の中ほどに与えられた机に向い、手にした教材教具を置きながら周りの先生と言葉をかわし、うなずき合ってあたりに目配りしたときに眼が合った。
 そのとき、ああ、これでもう帰ってもいい、授業を見せてもらうまでもないじゃないかと思った。二日間で六、七時間の授業を参観したが、そんな思いは変わらなかった。


        400 300


 中学生といっても三年生と一年生とでは表情、しぐさが大人と子どもほどにも違って、そのゆえに教師・授業への反応がまたまるで違ったことになる。それで全学年の教室をのぞかせてもらったが、授業者翔太の様子は同じで、子どもたちが受け入れて、翔太先生の指示によく従っていることがわかった。
 もう何年も出入りしなれた職員室にいるようにして過し、先輩教師が同僚であるように接して生意気にならない。動ずることなく子どもの気持ちに合わせて「教授」すべき事柄を示していく。その自然なたたずまいがよかった。

 とちることや、何かちぐはぐなものを感じさせて当たり前、教育実習のなかで子どもとなめらかに呼吸を合わせることができるというのは希有(けう)なことである。非常勤を入れると40年間、毎年数名の実習生を受け入れて直接間接にかかわってきたけれど、初めて眼にする光景だった。
 「オマエ、スコシ、ナマイキダヨ」
 外に言いようがなくて、少しくらい困った振りをするのも大事なことなのにとからかったが、嬉しかった。

 精神科医斉藤環は、誰でもよかった殺人が横行する時代背景を「孤独地獄」であるとして、「人ぐすり」(2009年4月19日付「毎日新聞」)が必要な時代であるという。
 孤独の地位が貧困や虐待なみで、いまや「貧困」や「戦争」、「病気」や「不運」さえも地獄でなくて「孤独」こそが地獄、孤独をいやす「人ぐすり」の調合が必要だというのである。
 戦争そのものは知らないけれど、敗戦後の「貧乏・いじめ」地獄にのたうつしかなかった身からすると、斉藤環先生の言は甘菓子のような歯ざわりではあるけれど、「人ぐすり」としての「親」や「教師」、家庭や学校が本来の機能を果たせなくなっている現状は認めざるをえないだろう。

 翔太がいつ頃教師になりたいと思ったのかは知らないけれど、教師が天職であるような奴もいるものなんだと思わせて中学を卒業して7年目、実習生翔太はすでに「教師」としてそこにいた。
 中学校生活のしめくくりに翔太が選んだのは、生徒会会長ではなくて書記長だった。表舞台は会長に任せて、裏方に徹して万端を取りしきっていたけれど、例年にならってとか、型通りというのがひとつもない。かならず何かが加わって、その度に担当教師や担任と「お前、本気かよ?」とか「そんなこと、できるか?」というやり取りになる。周りの教師がまた思わず口出しをしたくなって、一時、職員室の一角がにぎやかになる。

 翔太の発想、一言には周りを巻き込んでひとの気持ちを結んでいくあたたかさのようなものがあるのかも知れない。
 そんな翔太は「孤独地獄」をいやす「人ぐすり」として「調合」されるべき存在で、何より教師がふさわしいと思うのである。


 


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かまい合うこと おせっかいをやき合うこと  その5




 「ガイドの判断ミスがすべての原因のように言われるが、いろいろな条件が重なり、みんな少しずつミスがあった。『これがダメだったから』とは言い切れない」(2009年9月号「財界さっぽろ」)

 と話しているのは前田和子(64歳、広島市)さん、道に迷ったときの目印にと「前トム平」の標柱をデジカメに撮り、歩けなくなって座り込む38歳のガイドを励まし、最初に警察への救援要請の「110番」通報をして、自力で無事に下山したひとである。
 当事者のひとりでありながら、事態を冷静にしかも総合的に理解しようとする見解で、いかにもマニュアル的な「専門家」のコメントよりはるかに信頼できるものと思う。
 しかし「すべて」ではないとか、「いろいろ」とか、「少しずつ」というのは抽象的で、再発防止のためにそのまま役立つものとは言えない。

 物事には「そこ」で、「その時」を外したら取り返しがつかないという場面があるもので、自分(たち)は「その時・そこ」で何をしたか、しなかったのかということの検証こそが必要で、命にかかわることであればなおのことそのことを避けて通ることができない。

 遭難からほぼひと月をへて出された「財界さっぽろ」には、「判断ミス」をしたガイドたちへの少し打ち解けた感想・批判が紹介されている。
 まずは38歳のガイドについて、下山後に「悪天候の中の出発は『見切り発車』で無謀だった」(7月20日付「毎日新聞」)と語っていた戸田新介(65歳、愛知県清須氏)さんがこう話す。

 「北海道へ来るとき同じ飛行機に乗り合わせたが、『会社から夏休みの代わりにリフレッシュしてこいと言われた』と話していた。仕事というより、手伝いという感じだったのではないか」

 前田和子さんはこうである。
 「警察との電話でM(38歳のガイド)さんは『私はポーター(荷物運び)です』と言っていた。ポーターなら責任度がぐっと低くなるから、そう言ったのだと思います」

 前田和子さんは前トム平を過ぎた16日午後3時54分ごろ、ケイタイが通じるとわかって、ガイドに「110番してくれ」と依頼されて通報した。その時、現在地を聞かれても答えられず、ガイドに代わった。しかしガイドは疲労でろれつが回らないほどであったという。ガイドが自分は「ガイド」ではなくて「ポーター」であると名乗ったのはその時のことである。

 飛行機の中で物見遊山のように語っていた男が身動きがとれなくなって、救助要請さえツアー客に依頼しなければならなかった状況のなかでなお、ガイドではなくてポーターに過ぎないと身分を偽る姑息(こそく)さは救いようがないけれど、しかし、そういう無力なガイドたちの前にいたのは60代の男女15人である。
 たとえば前田さんがこの38歳ガイドに「あなたも子供がいるんでしょう。頑張りなさい」と励ます場面、それは母親がダメ息子をはがゆく思って叱咤激励している図そのものであるが、そうであればあるほど60代の男女15人にできることはなかったのか、ということも同時に浮び上がってくる疑問というよりは悔しさといえばいいだろうか。

 救援要請が遅れたのは、3人のガイドの「微妙な関係」ではなかったかとして、こんな「指摘」がされている。38歳のガイドについて語ったのは戸田さんと前田さん、しかしここで32歳のガイドについて語ったひとは特定されていなくて、「指摘もある」とされているだけであるが、

 「3人のうち2人は今回のコースが初めてで、ほとんどのことをメインガイドのT(32歳、札幌市)さんが決めていた。Tさんは北大山岳部出身で草花には詳しかったが、おとなしい性格で、1人で背負い込んでしまうタイプ。あとの2人が年上なので指示するにも遠慮がちで、きちんと機能していなかった」

 先(その3)にガイドの「年令とか性質がどうであったか」と書いたのはこのようなことであるけれど、今回のコースを知っていたというだけで、最年少で、メインガイドにされた男性が「おとなしく」て「草花が好き」な登山家といえば、生き馬の目を抜くような「下界」でさっそうと生きているひととも思えない。下界では生活できなかった冒険家植村直己さんを思い出してしまうが、緊急危難に際して決断して、てきぱき指示を出すようなことが一番苦手なタイプ、しかし愛すべき好青年であったろうとは思う。

 教育現場でなぜ「いじめ」をやめさせて、「いじめ自殺」が防げないかを考えるとき、教師の問題として、優しくて真面目で誠実であるけれど、しかし弱くて、学級・子どもをコントロールできなくて事件・事故を引き起してしまうのは、このTさんのようなタイプの教師であることが多い。
 そのような教師であるのだから「援助」して事なきようにするという学校としてのシステムが必要であるのに、それがない。
 システムがあったとして、マニュアルだけでどうかなるようなことではなくて、教師同士が互いにかまい合う、おせっかいをやき合うくらいに、職員室のなかが打ち解けていなければならないのに、今、世間話さえしない・できない・おっくうがる教師ばかりが増えているように思うけれど、どうであろうか。

 ともあれ、そのように無力であったガイドたちの「見切り発車」の指示に、8人を凍死させてしまうような降雨強風のなか、ヒサゴ沼遭難小屋を出発してしまう。
 その時、その「無謀」を言って立ちふさがろうとするのは格好いいことでない。「騒ぐ」よりは、黙って「見過す」ことの方がスマートで見た目にも美しい。品よくも見えるし、そう思って生活しているひとが多いのが世間というものである。
 しかし生きるというのは美しくて格好いいことばかりではないと、「騒ぐ」ことが多かったとぼくは思う。

かまい合うこと おせっかいをやき合うこと  その4

 


 

 

   常識としてわかる(はずだ)。
 という言い方があるのは、常識ほど大切なものはなくて、世の大抵のことはその常識で間に合っているし、そういうものとして生活していて困ることが何もないからである。
 いわゆる「専門家」が言うことの大半もその常識で、事件のたびにテレビに登場する「専門家」のコメントが常識以下であるのもさして珍しいことでない。
 そのようなテレビ文化に慣らされて、流されて、自分で考えることや、常識で行動することがなくなっているのだろうかと思われることも少なくない。

 いかにも自由が謳歌されているような風潮のなかに不自由が広がって、知らぬ間に個人が散(ばら)されて孤立し、ひとの絆(きずな)が絶たれているのかも知れなくて、人間関係の希薄さというのをはるかに超えて、こんなにもひとが孤立して生きる時代はなかったのかも知れないとさえ思われてくる。
 たとえば振り込め詐欺というのがあって、おなじ手口で騙される事件がどれだけ報道されても詐欺そのものはなくならない。そういう社会が好ましいとおっしゃるのは養老孟子さんである。そんなにも孫(家族)を思うお年寄りが多い社会はなかなかにいい、と。
 ぼくは少し違って、家族が散(ばら)けて孤独なお年寄りが多いから、家族への絆(きずな)を求めて手もなくおなじような騙(だまし)にあうのではないかと、つい意地悪なことを思ってしまう。

 作家の藤沢周平は「普通がいちばん」が口ぐせであったというが、詐欺にあうのはその「普通」のひとたちである。
 普通を「いちばん」として生きるひとたちが痛い目にあうことなく生きるためには、普通のひと同士が知恵を出し合って、互いをかばい合うことが是非にも必要で、かまい合うこと、おせっかいをやき合うことこそが大事なのではないかと言いたいのである。

 遭難の経緯には、プロのガイドの「専門的」判断を待つまでもなく、この「常識」による判断で十分に事足りるくらいに「異常」な状況であったのに、なぜに「みんなで渡れば怖くない」のようなことになってしまったのか。
 会社、ガイドの責任ははっきりしていると見ていいだろう。しかし「異常」な状況の前で、「常識」が安全弁としてはたらかなかったのはなぜかを考えるとき、今日の日本に生きるわれわれの内に眠る意識、ものの考え方というものが広く深く横たわっていて阻害しているのではないかと思えてならない。
 たとえば「自分の分を守る」を裏返せば「自分だけを守る」に、「他人に迷惑をかけない」を裏返せば「自分だけは迷惑から逃れたい」という心の風景があっていろいろなことが起っている、と。
 いわゆる40日選挙の公示日が近づいているけれど、「小泉・武部政治」とはそういう「心の風景」を政治として収斂(しゅうれん)させるものだったのではないか。

かまい合うこと おせっかいをやき合うこと  その3



 避難の「近因」は言うまでもなく会社の企画の無理、ガイドの無力であったと思われる。わけても現場にあって生死を分ける場面で、3人のガイドの判断に大きな誤りがあったことは疑いようがない。
 しかしこの判断ミスがガイドの「専門職」としての力量不足によるものか、人物としての意思力の弱さのゆえであったかは不明で、もし後者であったとすればそのことは15人のツアー客にそのまま当てはまる。
 60代のツアー客15人を先導したガイドの2人までが30代、リーダー格の60代のガイドが声を大にして指揮命令できる人物であったのかどうか、「意思力」の有無とはそのようなガイドの年令とか性質がどうであったのかということである。

 ガイドが縦走中断を判断できなかったか、続行を危惧しつつそのことをツアー客に納得させる自信がなかったかは、分かちがたく結び合わさった精神の作用であるけれど、ガイドの中断を納得させようとする意思がまた、ツアー客15人の意思と分かちがたく向き合っていて、そのような「関係」を無視して責任の所在を問うことは、可能ではあるけれど、同じような事故の再発防止のための手だてとしてはあまり役に立たない。

 60代の男女15人がそこにいて、唯唯諾諾ガイドの指示に従うだけであったとすれば、その「無力」ぶりは遭難の「遠因」として考慮されるべき事柄であるかも知れない。
 ガイドがツアー客説得に自信が持てなかった要素が仮にあったとすれば、そんなガイドの「意思力」に向き合って、ただ「従うだけ」のツアー客の意思がまたガイドの誤った判断を後押しする要素としてはたらいたかも知れなくて、再発防止のためにはそこまで考えておくことも必要なのではないか。

 仮にガイドの判断ミスがプロとしての力量不足のゆえであったとしても、自分(たち)がどうやって生き残るかは、ツアー客個々の判断の問題でもあり、ガイドの判断と表裏のものとして受け止めるのでなければ、命まで他人にあずける無責任と同じことになってしまう。
 「雨と風が体にあたり歩けないほど」のなか、「岩にしがみつきながら進むような状況」のなか、ガイドが出発の指示を出したとして、異を立てる意思は15人それぞれのもので、口が封じられていたわけでない。
かまい合うこと おせっかいをやき合うこと  その2



 登山ツアーだからお金を支払ったお客は縦走を楽しみ、是非にも山頂をきわめてわが家にもどりたかったと思う。
 企画した会社はお客をあつめてガイドにあずければ、ひとまず役目を終えて、次の企画を考えるのだろう。
 ガイドはツアーを成功させて「なんぼ」の立場、多少の無理はしても企画された内容を達成して、お客の期待に応えたいと考えて当たり前、歯車がそのようにかみ合ってこの世は成り立っている。

 三者三様であるけれどどちらにも「悪意」はなくて、利害ある関係であるにしても「善意」が前提、事が無事に成就すれば何の問題もない。
 そうであるのにほんのちょっとしたことが歯車を狂わせてしまえば、三者三様の関係はガラガラと崩壊して、8人はあっさり「見捨てられて」凍死したというしかないくらいに、ひとの「無力」さだけが残った。そして過去五十年で最悪の山岳遭難といわれた。

 防寒装備のチェックをしたとか、なされていなかったと報じられたのも、会社・ガイドの責任の有無にかかわる事柄であるからだろう。
 けれど装備の点検なら可能であっても、ツアー客個々の体力、体調、実力はチェックのしようもない。それは夫婦のあいだであってもわかりかねること、結局、ツアー客個々の判断に待つしかなくて、他人さまに迷惑をかけないために、自分の分として判断しなければならないことである。

 そうであるにしても今度のツアーでは、ガイドが先に倒れているのだからお話にならない。つまりそんなにも企画した会社の無理やガイドの判断力・実力のなさ、そのゆえの責任は明明白白である。その責任は追及されるべきだし、会社も逃げようがないことくらいはわかっていよう。
 しかし責任は問い、結果の責任が取られたとして、それで出来(しゅったい)した結果が変わるわけでない。失われた8人の方々の、大切な人生は失われたままなのである
かまい合うこと おせっかいをやき合うこと



 動けなくなって、意識不明になって、「凍死」がその後のことだとしても、山の奥深くにひとり取り残される不安と恐怖がどんなものであるか、山の弱者を自認し、山では常に敗者であるような自分にも想像することができない。
 けれどいじめにあう教室の「弱者」である被害者に、加害者がよく見えるように、山の弱者・敗者にも登山者の心意気はよくわかる。

 一番初めに登りはじめて、一番最後、それも通常の所要時間を大幅に超えて下山するような山登りばかりしていると、慣れるのは「追い越される」ことである。後ろにひとの気配がすると、まず、狭い登山道のどこで道を空けてあげるかを考える。そうやって道をゆずりながら、追い越して行く中高年の登山者をたくさん見てきた。

 中高年の登山者は、「働くことしか才能がない」と麻生さまがおっしゃったように無器用なひとたちではないし、まして「60過ぎて、80過ぎて手習いなんて遅い」と言われるようなやわな存在でもなくて、しっかり鍛えて登山にいそしむ姿は礼儀正しくて、ある種のすがすがしささえ感じさせる。もちろん自分もそうだとは言えないけれど。

 たとえば小中学生のお家芸ともいうべき万引きまでが、近年、お年寄りによってなされるような身勝手がまかり通っているけれど、山に入る中高年のひとたちは自分の分を守って、他人(ひと)さまに迷惑をかけない、そんな心意気の登山者は、道をゆずってあげるこちらの気分がよくなるような心ばえのひとたちばかりである。
 追い越し、追い越されるというのはほんの一瞬のこと、出会いと別れというのもおこがましいが、あえて「お付き合い」と言いたくなるような気持ちのよさなのである。

 ところがこの自分の分を守って、他人さまに迷惑をかけない、そんな心ばえのひとたちであったことが、大きな惨事をまねいた遠因であったかも知れない。遠因は、ときに近因より大切、重要なこともある。
 ということが大雪山系トムラウシ山遭難のテレビを観ながら、新聞を読みながら感じ、考えたことなのであった。

 ひとが生きていく上では、かまうとか、おせっかいをやくことも必要なことがあって、かまい合う、おせっかいをやき合うというのは、日常生活のなかではうるさくて、わずらわしくて、ときにじゃまにさえ思うことであるとしても、緊急危難の場面では一歩前に出て、はた迷惑に思われるようなことを言ったり、したりすることがないと、そういうひともいないと、お互いの命を守ることができないこともある。
 生存者の方々のコメントを聞きながら、読みながら思ったのはそういうことであった。
大雪山系トムラウシ山遭難 その3




 7月28日付北海道新聞が一枚の写真を紹介している。もやを背に木目あざやかに立つ標柱「前トム平」の写真である。
 デジカメで撮影したのは、自力で下山した広島市の前田和子(64歳)さんである。
 前田和子さんがトムラウシ温泉の最短コースの登山口にたどり着いたのが、7月16日午後11時50分ごろ、写真を撮ったのは午後3時ごろというから、五合目の前トム平から9時間近くかかっての下山であったことになる。

 トムラウシ山は、五合目の前トム平までが凄い。と山の「弱者」は思う。急峻な壁をよじ登って、一度また川の流れが見えるくらいの位置まで下りてしまう。そして再び急峻な壁をよじ登ってたどり着くのが五合目、少し大げさに言えば、前トム平までに二つの山を登るような思いにさせられる。
 そんなところを真夜中、前田さんは、9時間をかけて自力で下山されたのである。降雨強風のなかを出発して、実に18時間以上を歩き続けた。そのしめくくりが、昼間、晴天のなかでも厳しいトムラウシ山の下山であった。疲れるほどにつらいのは登るより下ること、滑る足元に気を配りながら「自分」の体をささえるのは、「他人」の体をもうひとつ背負うくらいのことであるけれど、あの日、自力で下山したひとたちは、神業とも思えるようなことを成し遂げて、「自分」の命を救った。
 前田和子さんも、その一人である。

 そんな前田さんが撮影した「前トム平」の標柱は、けぶる霧のなかにくっきりと像をむすんでいる。
「当時は雨や風は弱くなっていて、写真を撮る余裕があった。1人になった場合が心配になり、道に迷って同じ場所に戻って来ても分かるように、デジカメで記録した」と言う。
 「ガイドのペースが速くて引き離されそうになった」前田さんが、後を追っていたガイド(38歳、愛知県)もやがて歩けなくなる。
 座り込んだガイドに「あなたも子供がいるんでしょう。頑張りなさい」と40分近くも励ましたが、あきらめて、追いついて来た64歳の男性とともに下山したというのである。

 前田和子さんがケイタイが通じるとわかって、通報したのが午後3時54分ごろ、ガイドに「110番してくれ」と依頼されてのことだった。警察に現在地を聞かれたが、前田さんは自分がどこにいるかわからなくて、ガイドに代わった。しかし、警察の問いかけにガイドは「疲労でろれつが回らない状態だった」という。
 つまり、最初の救助要請もガイドではなくて、このとき(16日午後3時54分ごろ)の前田さんの「110番通報」であったのだ。

 そして18人のパーティのうち、7人のツアー客とガイド1人が凍死するといういたましい結果で、大雪山系トムラウシ山縦走の登山ツアーはその幕を閉じた。
 2009年7月、麻生下ろしの醜態をへて、やっと衆議院が解散され、40日選挙がはじまろうとしているときのことであった。

大雪山系トムラウシ山遭難 その2

 


 

その朝、出発のとき

 7月16日(木)午前5時半、「悪天候」のなか、3人のガイド、ツアー客の15人のパーティ18人が、ヒサゴ沼避難小屋を出発した。

 この日の午前5時、十勝地方の天気予報は、「曇り、昼過ぎから晴れ」だった。
 ガイドが「5時に予定していたが、あと30分様子を見ます」として5時半に出発したのは、この予報をもとにしての判断であったらしい。
 しかし、11時25分、「強風注意報」が出た。

 自力で下山した男性は、遭難小屋を出たとき、「雨と風が体にあたり、歩けないほどだった」という。

 18人のパーティとは別の、66歳の男性が起きたのが、午前3時半ごろ。
 「外は雨が降り、風も強く、出発を見合わせていた」が、18人のパーティが出発した後、男性らも小屋を出る。そのとき「雨風がますます強くなり、岩にしがみつきながら進むような状況だった」という。

 同じ状況を、救出されて帰還したガイド(32歳、札幌市、トムラウシ縦走の経験有り)が、18日、ツアー会社の松下社長に報告した内容は、
 「16日の出発時、問題はなかった。歩きはじめたときも、疲れて歩けない、という人はいなかった」というものだった。

 そして松下社長は、「憶測だが、出発した時点では、そこまで天候は悪くなかったのではないか」と述べている。(以上、7月19日、20日「毎日新聞」)

 しかし、出発して5時間後、女性1人が動けなくなり(意識不明と記述された記事もある)、リーダー格のガイドが付き添って残り、2人とも遺体で収容されている。

61歳のガイド(広島県、トムラウシ山の登山歴無し)

 一行18人がトムラウシ山頂手前の「北沼」周辺にたどり着いたのが、午前10時半ごろ、通常の2倍、5時間を要してのことだった。

 午前11時25分、十勝地方に「強風注意報」がでる。

 この「北沼」で、女性1人が動けなくなり、61歳のガイドが付き添って残り、2人は遺体で収容される。

 このとき、別のガイドの指示で、14人のツアー客は、2人の近くで、吹きさらしのなか、1時間半、待機する。
 場所は、標高1990メートル、降雨強風のなか、身を隠すものが何もない尾根にただじっと、1時間半を過したことになる。
 降雨強風のなか、5時間歩いて、1時間半待機していたのだから、想像を絶するような状況であったと思われる。

 自力で下山した65歳の男性が、毎日新聞(7月20日)の取材に応えて語る。
 「何をやっとんだ。これは遭難だ。救援を依頼しろ。指示を出せ。じっとしとってはいかん」と声を荒げたらしい。

 「指示」は縦走続行、「先に行ける人は出発します」として、「2人」は置き去り、16人が出発するが、それは悪夢の序奏のようなもの、ほどなくリーダーを失ったパーティはバラバラになり、「6人」が次々に倒れる。

 リーダー格のガイド、61歳の男性は、おそらくパーティ最初の凍死者でなかったかと思われる。

32歳のガイド(札幌市、同一コースの縦走経験有り)

 16日正午ごろというから、16人で出発してほどなくであろう、別の女性も「体調不良」(おそらく動けなくなったのだろう)となり、32歳のガイドら「5人」がビバークする。
 5人のうちガイドをふくむ男性2人、女性1人は救出されるが、残り2人が遺体で収容されることになる。

 ビバークする5人を残し、38歳のガイドとツアー客10人が出発する。
 出発にあたって、32歳のガイドが、38歳のガイドに依頼する。
 「先にあるトムラウシ分岐点で全員を確認してほしい」と。
 しかし、38歳のガイドにとって初めてのトムラウシ山、降雨強風のなか地形をたしかめるすべもなく、ただやみくもに前(かどうかもわからずに)へ進むしかなかったろうと思われる。
 ともあれ、ツアー客10人の命は、最終場面で3人目、トムラウシ山は知らない38歳のガイドに託された。

38歳のガイド(愛知県、トムラウシ山の登山歴無し)

 11人で山頂(2141メートル)を越えた。
 しかし、山頂を過ぎてすぐのところで、男性1人、五合目の「前トム平」手前で3人の女性が遺体で収容されることとなる。

 38歳のガイドと率いられた10人は、下山をはじめてほどなく、寒さと疲労で次々離脱して、パーティはバラバラになってしまう。
 しかしガイドは、「早く来なくてはいけない。間を空けないで」と呼び掛け、歩くペースを変えなかったという。
 そのガイドも、自力で下山できたのではない。10人のうち「4人」が凍死し、自力で下山できたのは男性3人、女性2人の「5人」だけ、救出されたときガイドは山の中腹あたりに「単独」でいたという。
 この38歳のガイドについて、松下社長は、「先に下りて救助を求め、再び山に入って助けようとしたのでは」(7月22日「毎日」)と語っている。

大雪山系トムラウシ山遭難




 登山は一度山に入ってしまえば、登ったぶんだけ、自分の足で下りて来なければならない。
 この「自分の足で」というのは、他に方法がない、という意味では自己責任よりもっと厳密で絶対的であるかも知れない。 

 かりに子どもを連れて山登りをしたとして、もしものとき、親が背負って下山することが可能なことはあるにしても、動けなくなった大人が誰かの助けを求める、つまり「運び」下ろしてもらうというのはほとんど絶対的不可能だから、救助を待つしかない。
 ケイタイという文明の利器が通じなければ、救助を求めることもできなくて、帰りを待つ家族からの通報を待たねばならない。
 そのゆえ誰かの助けを求めることができないというのが、登山者お互いの身分、立場というもので、ガイドがつくツアーであってもその状況は変わらない。

 山の本によればニペソツ山なら8時間、トムラウシ山なら最短コースでも10時間20分というのが標準の所有時間とされている。
 トムラウシ山は昨年初めて挑戦してみたけれど、「前トム平」であきらめて下山した。それはしかし自分の体力、体調、実力でこれ以上は無理と判断しただけのこと、よく晴れた暖かな日のことだった。

 遭難したツアーは旭岳から縦走して来て、2泊3日の最終日、トムラウシ山頂手前でガイドを含む4人、下山開始後、山頂と前トム平のあいだで4人の方が亡くなっている。8人ともに降雨強風による凍死であった。
 ツアーが目指したゴールのトムラウシ温泉は、最短コースの登山口でもあり、ぼくはそこから前トム平まで登ったのに過ぎないから、2泊3日40キロ縦走の最終コースで降雨強風のなか8人が凍死したというのは、「地獄」に向う「死の行進」であったくらいの過酷さであったろうと思うだけ、想像することもできない。

 ニペソツ山はなきうさぎのときが三度目だったが、いずれも12時間を要してのこと、標準の1.5倍以上の時間がかかっている。
 それでも頂上に立てる見通しのときは、妻が合わせて同行してくれるが、途中で無理と判断したときはあきらめて、一人下山して待つし、たとえば赤岳なら、銀泉台から層雲峡のロープウェー駅まで車をまわして、黒岳から下りて来る妻を待つということもある。この車を移動させるサービスは好評で、積年の恨みを軽減するのに多少は役立っているかも知れない。

 ともあれそんな山の「弱者」を自認する身には、2泊3日で40キロを縦走し、そのしめくくりがトムラウシ山であるようなツアー客は「鉄人」にもたとえるしかないようなひとたちである。
 その鉄人であるようなひとたちが一度に8人も、夏山で遭難して凍死するというのはどう考えても尋常なことでない。なぜそんなことになってしまったのか。
ニペソツ山頂のなきうさぎ





 ニペソツ山の頂上で、なきうさぎが出迎えてくれたのは、大雪山系トムラウシ山遭難直近の日曜日、お昼少し前のときだった。
 この日曜日も朝は晴れていたけれど、ニペソツの全容を見ることができる天狗岳(写真)から深い霧につつまれていたし、頂上からの視界もほとんどきかなくて、三百六十度に広がる山塊の山々を見ることはできなかった。

 ニペソツ山の頂上はせまくて、少し大きなツアーならそれでいっぱい、その後になれば立ったまま食事をということになりかねない。
 風がちょっと強くなると頂上の北側斜面は寒くて耐えがたいくらいなのに、南側は部屋の暖気にあたっているくらいに暖かい。
 先に登っていたひとたちが、こちらにおいでと、その南側に誘ってくれた。そして、「ほら、そこの岩穴、なきうさぎが顔を出すから見てなさい」と言う。

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 なきうさぎは体長二十センチほど、太古からの生きものとされていて、大雪山系の山ならどこにでもいる。岩場を行く登山道でピーピーと啼く声はいつでも耳にすることができる。がその姿はめったに見られない。見られたとして、ほんの一瞬、遠くにものの動く気配を感じて、なきうさぎだったかな、と思ったときにはもう岩穴に隠れてしまう。
 三脚に高価で重たそうな望遠レンズをすえて、じっと待つひともいるけれど、それでもかんたんに写させてくれないのがなきうさぎと思っていた。まして畳数枚ほどのところに次々あらわれては言葉をかわし、写真を撮り合う登山者でにぎわうような頂上の岩場になきうさぎが姿を見せるなど、千載一遇ほどの奇跡、偶然にしても運が良すぎたのだろうと思いつつ、おにぎりのアルミをほぐしていると、「ほら、ほら――」「あっ、いた、いた――」と周りで声がする。
 振り向くと、手がとどきそうなところになきうさぎがいた。
 それも六、七枚くらいはシャッターが押せるほど十分に、「もう、いいかな。ちゃんと写せたかい?」とでも言うように、そこに、じっとしていてくれたのである。
 なんか、もう、幻でも見ているようで、カメラをかまえつつなお信じがたくて手がふるえた。

 ニペソツ山頂から見る大雪山系は広大で無辺、北海道に住んでいることが誇らしくなるような眺めである。
 そして、ニペソツこそ日本でもっとも美しい山だ、何回でも登りたいと本州から移り住んだ山好きなひともいる、というまことしやかなうわささえある。
 日本一美しい山と誰もが思っているのは富士山だが、天狗岳から見るニペソツ山の勇姿は、富士山とはまたちがって気高くて美しい。
 トムラウシ山と美瑛岳で十人が遭難したのは、そんなニペソツ山頂でなきうさぎに丁重にもてなされて、気分よく下山して何日もしないときだった。過去五十年で最悪の山岳遭難という。




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