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正義よ、のりピーを撃て




 鳩山内閣発足の翌日、のりピーが保釈になって、500人の報道陣が詰めかけたという。その数をたしかめられるわけでないが、群がる報道陣の様子をおなじ報道陣のカメラがとらえて、それも映してくれるのだからなるほど凄いもんだという雰囲気だけは十分にわかる。

 騒ぐ当事者がその騒ぎをまた報じて、事態を途方もないものとして見せてしまえば、それほどに重大重要なことであったかどうかはどうでもいいことになってしまう。
 それがテレビで清純無垢なのりピーも、何かしらうさんくさそうなのりピーもテレビがつくって見せてくれたもの、視聴者はテレビの前で煽られていればいいだけの存在ということもできる。

 マスコミとかメディアというけれど新聞や週刊誌でなくてテレビ、テレビゲームとかインターネットやケイタイではなくてやはりテレビ、このテレビだけは特別なものであるように思う。

 テレビを「買う」ことが非であれば別だけれど、衣食住をそろえることとおなじ、買いたいと思う「欲望」に責められるべきものはない。
 けれど一度買って茶の間においてしまうと、温厚で柔順な画面から放射されて誘い込む、何か得体の知れない「力」には抗するすべがない。

 のりピーが獄中にあった40日間は、麻生さんが予測解散をして鳩山首相が誕生するまでと重なったことから、たくさん(いるはず)の疑惑者のなかからのりピーが選ばれ(たかもしれなく)て逮捕されたのには何かウラがあるのではないかという穿った見方もあったようだ。

 誰に何を謝罪する必要があったのか、のりピーが誰かに、あるいは世間に何か迷惑をかけたわけではないだろう。
 そんなのりピーがカメラの放列に深々と頭を下げた。覚めているようにも思わせた顔ののりピーの足元には、たぬきのぬいぐるみででもあるかのような大きなマイクがおかれて、のりピーの声もはっきりきくことができた。

清純無垢ののりピー笑顔がプリントされたシャツを着込んだ若者ともいえない年ごろの
男性が、「もう、どのくらいファンなのですか?」とマイクをむけられて、ウフッとふくみ笑いでもするように、「逮捕されたときから――」と応じて背をむけた。
 思わず噴きだしてしまったが、こちらまでのりピーを応援してやりたい気分なのに気がついてちょっとあわてた。

 ただのお人形を見ているようで、ことさら清純派と思っていたわけでもないけれど、こんなことになってみると、そうと思わせることなしに敵を味方に、味方を敵につくり変えるくらいのことができる、テレビとはそういうものであるだろうか、ぼくはのりピーがごときに関心はなかったが、いま、のりピーのために何かしてやりたいおじさん、いやいやおじいさんのひとりになりたいと思う。
 テレビがひとの意思や思考回路まで自由自在にあやつることもできるのだとしたら、ひとり茶の間でテレビを抗して生きよう、のりピー応援もその方途であるとしたら何とわかりやすい生き方であることか。しかし、それは、可能なことであるのだろうか。
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ドン・キホーテになれ




 風、というより嵐のすさまじさに息をのむ。膨大な数の民意がつくり上げた、鮮やかな政権交代である。
 こんなはずではなかった。後々、そんな思いを決して抱かせないでほしい。
――――というのは日本経済新聞のコラム氏が「春秋」(2009年8月31日)に書いたことである。

 一方で、「政権交代というキーワードで完全に〝一色主義〟に染まった。そこまで極端に振れる日本人に、言葉は悪いが、私は気持ち悪さを感じた」(田原総一郎)とか、「ワンフレーズ」で「自民と民主が入れ替わっただけ」(雨宮処凛)とか、「政治がコンテンツ抜きのパフォーマンスだけで評価されてしまう国ということでもある。この選挙、思い返せば返すほどその中味のなさに唖然としてしまう」(立花隆)などはいずれも、そうもいえるということで実際、同じような感想をもったひとも少なくなかったろうと思う。

 けれど、そう「見て」、そう「言う」ことは、選挙に生活者としての夢をたくすしかなかったひとたちの気持ちをさかなですることで、生活者を「衆愚」として切り棄てることができるひとの「高み」からの物言いといえば、ひがみが過ぎるだろうか。

 少し前に「年越し派遣村」のことがたれ流された。たれ流すくらいに報道してもらわないと困るのではあるけれど、そんなときにいつも思うことがある。
 報道する側、つまりメディアの仕事にかかわるひとたちの多くは、生活者とは縁遠いくらいに高収入のひとであるということだ。生活費の心配などしなくていいひとたちが、たとえば年越し派遣村をわがことのように取材して報道してくれることに、ぼくはいつも違和感を感じているということなのである。
 だから報道してくれなくていいというのではないけれど、もし、「一色主義」の「ワンフレーズ」で踊り、「コンテンツ抜きのパフォーマンス」で投票所に向ったとしたら、そうさせたのはメディア、とくにテレビの力であり、生活者には田原さんや雨宮さん、知の巨人なんて言われた立花さんのようにメディアを動かす力などははじめから持ってはいないのである。

 後々、「こんなはずではなかった」とは思いたくないから、ひとつだけ例をあげておきたい。
 脱官僚、天下りをなくすというのがある。3党合意が成って鳩山新政権が少しずつその「表情」を見せはじめるなか、お手並み拝見、さて、何ができるでしょう、というニュアンスの冷ややかさがすでにマスコミ報道や「専門家」のコメントのなかにないわけではない。

 しかしこの天下り、二、三年で外の天下り先に移っていくたびに大枚な退職金を手にしているという実態を、「婦人公論」が取り上げたのが昭和40年代初め、実に40年以上前のことである。
 中学の社会科教師になったばかりで、はりきって教材に使ったからはっきりおぼえているが、以後、こんな理不尽な税金のムダづかいにメスを入れようとした政治家・政党は「革新」を声高く叫ぶ、その「叫び」のなかにさえなかった。
 いま、新与党が、そこに手を突き入れようとしているのである。支持したい。

 政権交代選挙の最中、夢とビジョンを併せ持つ現代の「ドン・キホーテは誰?」かと呼びかけた浜矩子先生は、民主308VS自民119議席という結果を眼にして今度は、鳩山代表よ「ドン・キホーテになれ」(2009年9月1日付北海道新聞「政権交代シリーズ評論」)と呼びかける。

 ドン・キホーテは「若くて筋力のあるスーパーマンではない。老人だから従者の介護が必要で他人への依存度が高く、腕力が弱い。
 だが彼の夢は大きく、若いビジョンに満ちている。誰も言わない正論を言う。一見情けないが、情けなさの中に力がある。鳩山代表が掲げる『友愛』は、今の世の中に必要とされている『1人は皆のため、皆は1人のため』という理念に重なる。ドン・キホーテは保護主義的な『自分さえ良ければいい病』から遠くにいるのだ。(略)米国に『日本はでかい口を利くけど、その通りだ』と言わせる。(略)腕力がないなら、『舌力(ぜつりょく)』で勝負する日本のイメージを追求してはどうか。」
 というのが浜矩子先生の、鳩山新政権への期待である。

 文芸評論家中村光夫によれば、セルバンテスの「ドン・キホーテ」は、「たんに近代小説の先祖というだけでなく、ある意味では近代小説全体がそこからでられないほど高い完成に達して居ます。」とするのであるから、難解な古典とも思わせるがそうではない。
 ぼくが好きなのは、「美人の噂をはるかに越えるほど美しい女の羊飼いマルセーラ」が登場する場面である。
 批難するおとこどもを前に、「わたしは生まれつき自由な女です。だから他人のいうなりになることはきらいです。誰も愛しもしないかわりにきらってもいないのです。
 (略)自分の山羊の世話がわたしの喜びです。
 (略)わたしの心に浮かぶ願いはこのあたりの山地だけにとどまっています。」
 と木立のなかに去って行くマルセーラのかわいらしくて美しい自我は、現代の女性解放論者のどんな言説よりも、現代人の心をうつ。「近代小説全体がそこからでられないほど高い完成」の小さな物語がたくさん詰め込まれている大きな物語こそセルバンテスの「ドン・キホーテ」なのである。
 鳩山由紀夫新首相よ、ドン・キホーテになれ!
ドン・キホーテはいずこに?




 政権交代選挙(2009年8月30日投票)の議席獲得について、週刊誌の予測がいかばかりであったか、サンデー毎日(9月13日号)が紹介している。
 民主党308議席VS自民党119議席について、週刊朝日が326-102(政治評論家森田実)と307-122(政治ジャーナリスト野上忠興)という二つの数値を示していた。
 サンデー毎日が249-173議席で自民党の願望にもっとも近いものであったが、その毎日と朝日のあいだに文春(291-128)、現代(289-141)、ポスト(275-150)と三誌の予測があった。

 今回は女性誌までが詳細な予測を出したそうで、女性セブンの270-150議席というのはテレビでおなじみの政治評論家有馬晴海のものである。「本当は民主党300、自民党100と予測しましたが、実はあまりにも極端すぎると編集部から修正を求められたのです。」という。とすれば朝日の野上予測に次ぐ近似値であったわけで、常日頃、平易に語る氏の政治的状況判断の的確さがあらためて実証されたということもできる。

 いずれにしても民主圧勝、自民惨敗という大勢は読めていたわけで、ひとり読めなかったのが敗戦後の日本再生をはかった偉大な吉田茂の孫麻生太郎首相だけであったとすれば、そのことがまたひとつの時代を画すものとして感慨深い。
 二世、三世がすべてダメというのではないが、「あれは大工のブーデのせがれでしてな。親の暮らしがらくなもんで子どももあまやかしている」からそうなったというのは近代文学の先駆者フローベール「ボヴァリー夫人」の一節である。
 いまこの国では親や社会にあまやかされたか、物事の見境さえつかない「大人」があまりに多くなって、「日本人が壊れる」(柳田邦夫)とか、なぜ日本人は「ここまで劣化してしまったのか」(2009年9月6日付毎日新聞「千波万波」)潮田道夫)といわれて、政治家も例外でないとすればそれ以上に憂うべきことはない。

 セルバンテスが「憂い顔の騎士」としてあのドン・キホーテを登場させたのが、スペインの無敵艦隊が大英帝国に敗れて、地上の覇者が入れ替わって行くときであった。
 ボヴァリー夫人はそれから270年の後、フローベルによれば小説は客観的で、無感動的で、没個性的でなければならなくて、その考えに徹することで近代的自我の象徴でもあるような「個性」として、ボヴァリー夫人が造形のされたのだといわれている。
 夫シャルルや妻エマ(ボヴァリー夫人)、その周りで蠢く人物はいずれも現代人そのものである。政権交代選挙のために投票所に足を運んだ老若男女に生き写しである。
 社会のしくみがどんなに変化しても、人間はそうそう変わるものでないらしいということが、古典を読みかえすといまさらのごとくわからせてくれる。事の真実は古典から学ぶしかないのかも知れない。

 ともあれ育ちの良さがつくる「愚者」がいくら善良であっても、生活者としては見過しにできないというのがこのたびの政権交代選挙であった。
 われら衆愚の選択――は週刊新潮のキャッチフレーズだけれど、「衆愚」の夢を、スペインの文豪セルバンテスの夢に重ねあわせて、「ドン・キホーテは誰?」(2009年8月16日付毎日新聞「時代の風」――脱・マニュアル選挙)を書いたのが同志社大学教授浜矩子だった。
 「ドン・キホーテは老人だ。だが彼の夢は大きく、心は若きビジョンに満ちている。彼の夢とビジョン(には)強きをくじいて、弱きを救う騎士道精神がある。(そんな)信条と心情の吐露がないものを、マニュフェストとはいわない。夢とビジョンで競い合い、本当のマニュフェストをぶつけあい、グローバル時代のドン・キホーテの座を手にする」のは「誰?」というのであった。

 われら「衆愚」の生活には圧勝も惨敗もあるわけではなくて、日々、刻苦勉励しかないことは、この際あらためて肝に銘じておかねばならないが、しかし、見られる「夢」もなければ生活は楽しくならない。
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