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正義よ、のりピーを撃て その2




 テレビは可視の範囲を広げた。
 互いの生活を見えやすくした。
 「隣りの芝生」は向こう三軒両隣の話であるけれど、「わが家」はどんな遠方の生活と比べることもできるようになった。
 羨望・嫉妬の対象が全国区になったともいえる。

 のりピーの謝罪記者会見も無事済んでテレビが少し静かになったころに『隠蔽』(幻冬舎)を読んだ。サブタイトル「須賀川一中柔道部『少女重体』裁判」がその内容で、著者はテレビ朝日「スーパーモーニング」取材クルーと被害者の母親、「まえがき」と第十章が母親の手記、第一章から第九章までがテレビ朝日報道局ニュース情報センターのディレクターである井ノ口格の執筆という構成になっている。

 事件が起ったのは2003年、翌04年に「カッターナイフ殺人事件」があり、06年には北海道滝川市の「いじめ自殺・遺書隠し」が発覚して、日本列島がいじめ問題で揺れ動くような騒ぎになった。
 けれど2003年に起ったこの事件がテレビで報道されたのはやっと2006年、少女の両親が事の真相を知るべく民事訴訟に訴えたのがきっかけだった。
 そのあと何度も放送されているこの事件の番組をぼくは一度も見ていなくて、『隠蔽』によってはじめて事件の詳細を知ったのだが、2009年3月27日、少女の両親が訴えた裁判の判決が出た。
 判決を受けて母親は、「事故から五年半、民事訴訟を起してからは約二年半、(略)学校に対して訴えを起すというのはとても勇気のいることなのです。」と記す。約8年、いまも意識不明のわが子を介護しながらの裁判がどんなに苛酷なものであったかはうかがい知ることさえできない。
 判決は、約60年分の介護費用など2億3千万円の損賠請求に対して、1億5026万2522円を支払えというものだった。須賀川市は緊急市議会議員全員協議会を開き、「控訴しない方針を固めた」というから、福島地方裁判所による判決が確定したことになる。
 勝利だったとはいえるだろうが、お金でしか償いを求めることができない被害者家族は、出口のない思いと向き合って生きていかねばならない。

 『隠蔽』はテレビの取材と放送がどのようにしてなされるかについての現場からの報告のようになっていて、仕事の大変さと、テレビの影響力の大きさを教えてくれる。テレビ報道がなければ、学校や教育委員会によるあまりに理不尽な「インペイ」の真相がここまで解明され、原告の訴えが認められたかどうかもわからない。
 テレビの功罪についてかんたんにいうことはできないが、この事件の場合、その「功」ははかり知れないくらいに大きかったと思う。

 ラジオがテレビにかわって、シロクロからカラーテレビにかわって、いまはアナログから地デジへと何のことやらわかるようでわからないことになってテレビの売上げだけはよくなっているようであるけれど、テレビ時代を「1億総白痴化」と談じたのは大宅壮一である。
 そして高度経済成長というものにもひと段落がついて豊かさが謳歌され「1億総中流化」意識が喧伝されたときに、それは「劣情の支配する国」の卑しい姿であると切って棄てた倉橋由美子は、みなが豊かになったのではなくて、自分(たち)も「中流」になったと思うことで、他者への羨望・嫉妬を抑え込むための方便、感情の操作にすぎないと言い切った。

 羨望・嫉妬は比べることから起る感情で、未来なら隠されているはずのものだが、「1億総中流化」意識として「抑え込む」必要が生じるほどにむきだしの感情になってしまったとしたら、テレビなしにそうなったとは思えない。
 向こう三軒両隣が核になって、ささやかな助け合いのもと、隣り近所の連鎖としての地域社会が成り立っているときには、比べて羨むという心の衝動も「隣りの芝生」としておくだけでよかった。
 しかしテレビが生活者の可視の範囲を極端に広げ、互いの生活を見えやすくして「わが家(自分)」の生活がどんな遠方の生活とも比べることができるようになって、羨望・嫉妬の感情を吸収してくれるはずの「隣りの芝生」そのものが壊れてしまったら、卑しい心の衝動の隠し場所もなくなってしまう。羨望・嫉妬の対象が全国区になったとはそのようなことである。

 産業革命のときにひとびとが機械が敵であるとして打ち壊しに走ったのは、大量の失業者を生み出す機械こそが「生活の敵」であると受け止めてのことだった。
 いま同じ機械であるテレビが、獣を野に放つのたとえのように、ひとびとの「劣情」を解き放って千里を走らせているとしたら、生活の敵としての機械よりはるかにやっかいな「生きもの」を茶の間に飼っていることになる。
 のりピー現象を「いじめ」とするのは容易だが、もっとはるかに複雑で「誰でもよかった殺人」さえ、もとをたどれば世間にはびこる羨み・憎む劣情の刃がなせることであると受け止めることもできる。

 流行語といってしまえば他愛のないことであるけれど、人口に膾炙(かいしゃ)することばには時代の気分を背負う重さが隠されていて、「1億総中流化意識」はその最たるものだろう。
 しかし倉橋由美子のように読み解いた例はないと思うから、「劣情の支配する国」(1983年「クロワッサン」所載)から少し引用しておきたい。

 大多数の人が自分は人並みであり〈中の中〉位だろうと敢えて思い込むところには、嫉妬と背中合わせでいて嫉妬を意識しないでおくための計算された幻想があります。
 そこで劣情とはこう定義できます。他人を手段として(その結果他人に不利益を与えることも意に介せず)自分の欲するところを追及しようとする情熱、これが劣情の名にふさわしいものです。つまりそれは自他の関係の上に培養される感情であって、他人とのかかわりのないところには劣情もなければ高貴な感情もありません。
 ところで劣情の中の女王とも呼ぶべきものが嫉妬です。

 のりピー現象とは、この「1億総中流化意識」の延長線上に起ったことで、演出はテレビ、出演者は国民であったような気がする。
 そしてぼくは、強いていえばのりピー無関心派から、ささやかな応援隊の一員になりたくなったということになるだろうか。
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