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2009.10.28 母の羅針盤
母の羅針盤




 教材として新聞を活用する学校がふえて、よく工夫された子ども新聞や学校新聞もつくられ、紙面をとおして応援する北海道新聞の様子がまたいろいろに工夫されているのをたのしんでいたら、授業で一紙のみ社説を活用することには問題がある、「偏向」教育のおそれはないかとの議員の指摘があって北海道教育委員会が全道立高校を対象に調査をしたというのだからちょっとびっくり、そんなことがきっかけで子どもたちが新聞に親しみ、社会の多様な姿を紙面のあれこれから学ぶ機会が失われるとしたらとても惜しいことです。
 社会を映す鏡であるはずの新聞が無色透明でどんな片寄りもないとしたらそのことのほうがおかしくて、いまさら教材にするほどのこともなくなってしまうし、「負」がなくて「正」のみが与えられるようにして育つ子どもの不幸こそがちまたにあふれているのではないでしょうか。

 新聞がもつ多面的な力はそんなちっぽけな思惑をこえてはるかに広く深いものなのではないかと、ぼくが考えるようになったのはごく最近のことです。
 それは母にとって新聞こそが生きるための羅針盤だったのだと思えるようになったということでもあるのですが、どんなに忙しくても母が新聞を見なかった日は一日もなかったように思います。
 読まなかったではなくて見なかったとしたのは、多分、母は読もうとしても漢字のほとんどがわからなかった、読めないし、読めたとしても意味がわからない漢字のほうがはるかに多かったのはたしかで、四、五年生のころから母の代筆をさせられていたぼくにはよくわかるのです。
 それでも毎日、眠る前にかならず新聞を見ていたと思われるのが、母の枕元の光景です。

 枕元の光景などとおおげさなのですが、朝、枕元には一枚一枚ほぐされた新聞が押しやられてひしゃげたままになっています。いく通りにも折られた様子から、寝たままの姿勢でどの面も見たり読んだりしていたのだなとわかります。
 農繁期、ぼくらが起きたときに母はもういません。日の出とともに田畑に出て、夜、暗くなってからリヤカーを引いて家に帰って来る、それが母の何十年もかわらずに続いた生きる姿でした。
 すっかり日が暮れて暗くなってから家に戻る母と過すのは床に入るまでのほんのひととき、枕元にくしゃくしゃになった新聞だけがわずかに母のぬくもりを教えてくれる、そのゆえに枕元の新聞が新緑や紅葉の季節の光景のようでもあったといえば飾りすぎになるかも知れないのですが。

 母の学歴はなんてものはありませんが、尋常小学校2年まで、それもいちばん下の妹をおぶってのことだから、背中で妹がくずれば廊下に出てあやさなければならなくて、冬の廊下の冷たさがいちばんこたえたといいます。
 そんなだも、おぼえられたのはひらかなとカタカナくらいだと話すことはあったけれど、だから、しっかり勉強しないとだめだとは一度もいったことがありません。

 そんな母がなぜかあんなにも新聞を手ばなさなかったのだろう、ある意味で執着したというくらいに新聞を見ていたのはなぜなんだろうと最近考えるようになったということです。
 母の年令をもう十分に生きたいまごろになって、しきりに母のあれこれを考えるようになった、それが年をとったということであるのかも知れませんが戦争が終ったとき、つまり敗戦のときですが、父が戦死して戦争未亡人といわれるようになった母にのこされたのが三人の子どもと二人の甥と姪でした。
 五人の子どもにまずは食べさせて今日という日を生きのびなければならなかった、そのとき、母が直前したのは歴史そのもの、食料の確保を急ぐ占領軍による農地改革とジープ(が占領軍兵士の象徴、代名詞のようなものでもあって、当時、はなたれ小僧にもジープといえば怖いので、”アメリカさん〟と知っていましたが)供出というもので、それは後になって歴史というものを多少ひも解いてわかることに母の話をかさねあわせて考えることができるようになったときの理解というものでした。

 ひとびとにとって怒涛のような歴史的転換のときであったか、あるいはまた何がどうなっていくのかもわからない呆然自失のときであったかはわかりませんが、母には、まずは農地を手に入れなければならないという現実が目の前に突きつけられていたことになります。
 しかし小作農であった父が戦死して、後にのこされた妻であった「女」に自作農としての土地が分与されるのかどうかもわからない、しかし与えなければ親子六人路頭に迷うというのさえロマンチックなこと、即、一家心中のほかに道はなかったと思います。
 そのとき母が生きものの本能のようにして、なにをどうすればいいか知るためには新聞しかなかった、ということではなかったろうかといまにして思うのです。
 ひらがなをたどるようにして紙面から、記事が伝えようとするものを探し歩く、母の新聞との「格闘」はそんなものであったろうと思われるのが枕元の光景でした。
 そのときぼくらは五歳と四歳と二歳、甥と姪は小学生でした。
 昭和16年11月11日、12月8日の真珠湾攻撃のひと月前に生まれたぼくに戦争に勝つ男「勝男」と名づけた父は、二歳だったぼくを抱いて、かならず帰って来て、こいつを大学に入れてやるんだと母に話して「出征」していったといいます。征子と名づけられた妹が生まれたことを、父は知らないまま昭和19年、テニアン島玉砕で帰らぬひととなりました。
 ひと目会っておきたかった、父の声をいちどでも聞いておきたかったと思うのもこのごろのことですが、母がぼくに人生を与えてくれたのだからぜいたくはいえません。
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