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2009.11.05 母の流儀
母の流儀




 「君を採用するというのでもないんだ」
 というのはとても変な申されようではあったけれど、昭和四十年七月、教育委員会から呼び出しがあっていきなり通されたのが教育長室、開口一番、そのようにいわれて教員として正式に採用されたのです。
 それにしても変な話されようでどう言い直してみても、そのときの教育長のことば通りにはなりませんが、変といえば一教員の採用にいちいち教育長が対応するというのもないことだから、何から何まで通常とは違っていて、そんなことから察するに教育長なりのユーモアで、本来なら君のお母さんを採用したかったがそうもいかないから君に来てもらったという主旨ででもあったろうか、
「君のお母さんのような人は見たことがない、こんな人もいたんだと思ってね、ずいぶん驚かされたが、君はあのお母さんに育てられたんだねえ――」
 とひとり感心するようにうなずいてから、おもむろに、
 「○○中学校の英語教師が休職していたのだが、この一学期で辞めることになった。その後任として君に行ってもらう。免許は社会科だそうだが、まぁいいだろう、八月一日付けの採用だから夏休みに入る前に一度学校に顔を出しておきなさい」
 とそれだけ、採用に当たっての事務手続きまでをあっさり終らせてしまうやり方には一時の無駄をもつくらない手際よさであったのに、それから三時間です。教育長がそんなにひまな職務とも思えないのに、教員として採用したばかりの男を相手に教育について語り、教師について語り、親子について論じて三時間、その間教育長室のドアがノックされることは一度もなくて、帰りしな事務方の人たちが一斉に仕事の手を休めて見送ってくれた、その不思議なものでも見るような様子にぎょっとさせられて壁に眼をやったそのとき、ああ、教育長室に三時間もいたんだということに気がついて、今度は自分がびっくりしたことだからよく覚えているのです。

 テーマを与えられた講演でも三時間は長いし、どんなに気心が知れている相手でも三時間向き合っているのはやはり長すぎる、そんな時間をただ相づちを打ちたまに短い感想を意見らしくはさむだけの若い男相手に語り、語らせたものは何であったかと思いめぐらすとき、母だったのではないか、ぼくが相手なのではなくて背後の母が相手のつもりの語らいだったのではないかと受け止めれば少しは納得できることでした。
 ぼくは「60年安保」の年に高校を卒業して二年間、民間の会社で働きながら通信教育で一年分の単位を取り、上京するためのお金をたくわえ、上京した年にさらに一年分の単位を加えて三年に学部編入し、教員免許を取得して地元に戻ったのが昭和四十年三月のことです。北海道網走地区の教員採用試験にも受かってA登録されていたから、まさか不採用になると思っていなかったのに採用されなかった、それで母校の高校で時間講師のアルバイトをさせてもらっていました。
 そんな愚痴を多少は口にしたと思いますが、次年度には採用されるだろうとさほど心配もしていなかったのですが、Bで採用されているのにAの自分が不採用というのはやはり納得のいかないことでした。

 母が農良着をよそ行きに変えて、「ちょっと教育長に会って来る」と出かけたのは畑作の準備をしつつ田植えが始まる前にひと息つける五月のことであったと思います。
 母が細い眼に笑をふくませて動き出すのは十分に考え終って、たとえ見通しがつかなくてもやると決めたときなのですがしかし、当てもなく動くことはなくて、相手が理不尽な拒絶をするような場合でも根気よくこちらの正当性を主張して止まない、そのための材料はいつでも新聞から得ていたと思うのです。
 何かつてを頼りにというのではなくて、面識がなくても判断してもらえる相手として教育長の懐にとび込んで行く、そうするだけの根拠は新聞を通して学んでおくというのが母のやり方、流儀であったと思うのです。
 畑で作物が育つのを見ているのが一番いいと話し、それだけの人生ではあったけれど、教育長が三時間ぼくを相手にしてくれたのはそんな母の人生をいいものと認めてくれたからと受け止めれば、納得がいくというよりは嬉しさがこみあげてくるのです。
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